太平洋戦争で多用された旧日本海軍の九七式艦上攻撃機。この80年前に空母に搭載されていた艦載機の原寸模型が、先日、兵庫県加西市の地域活性化施設で事前公開されました。

なぜ、今この地で復元展示されたのかひも解きます。

なぜ海から遠い内陸に空母搭載機?

 2022年3月9日、この春からの一般公開に先立って九七式艦上攻撃機(九七艦攻)の実物大模型の現場見学会が、兵庫県加西市の鶉野(うずらの)飛行場跡地奥に新設された加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」で執り行われました。

 この見学会は加西市のふるさと納税者への特典のひとつとして開催されたものです。施設の目玉である九七式艦上攻撃機の模型は、一般公開が始まると天井から吊した状態で展示される予定です。そのため、今後見る機会が少ないであろう機体上面などを子細に見学できる数少ないチャンスであると思われたことから、筆者(吉川和篤:軍事ライター/イラストレーター)も事前に寄付を行って今回の見学会に参加しました。

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兵庫県の加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」で事前にお披露目された九七式艦上攻撃機の原寸模型。一般公開では天井から吊り下げられるので、この角度からは見えなくなる(吉川和篤撮影)。

 この加西市の鶉野飛行場跡地は、近年に国より加西市へ払い下げられたことから、太平洋戦争当時のままの姿を留めた旧日本陸海軍の滑走路としては国内屈指の規模を誇る場所です。ゆえに防空壕や爆弾庫などの戦争遺構も比較的多く残っており、これらも滑走路とともに次世代へ残すための保存整備が進められています。

 しかし、近傍の姫路市から車でも40分以上かかるこの場所は、周りを畑や山々に囲まれた内陸にあることから、ともすると海軍よりも陸軍の方に馴染みがありそうに思えます。なぜ、ここに戦時中、空母から発進していた九七艦攻の模型を展示するいわれがあるのでしょうか。

 実はこの鶉野飛行場は、優秀なパイロットを養成する目的で戦争半ばの1943(昭和18)年10月に創設された姫路海軍航空隊の基地だった場所です。

当時は九七艦攻以外にも、通称「赤とんぼ」と呼ばれた複葉の九三式中間練習機や、新型の艦上攻撃機「天山」も見られました。また、滑走路の南西端には川西航空機姫路製作所の鶉野工場があり、ここで旧日本海軍の新型戦闘機「紫電」や「紫電改」が510機以上組み立てられています。

太平洋戦争開戦時の主力艦上攻撃機

 今回、原寸大模型で再現された九七艦攻は、1937(昭和12)年に中島飛行機で開発された3人乗りの艦上攻撃機です。機体は全金属性の低翼単葉構造で、国産の単発機として初めて引込み脚を採用するなど近代的な設計が特徴の軍用機でした。そのため、それ以前の複葉タイプの九六式艦上攻撃機と比べて、「栄」エンジンを搭載した改良型の三号は最高速度も約100km/h向上の378km/hとなり、以降は旧日本海軍の主力攻撃機として運用されています。

兵庫の平野に蘇った「九七式艦上攻撃機」空母関係ない場所になぜ?「紫電改」に次ぎ登場
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機首のカウリング(エンジンカバー)は、前方に膨らんだ「光」3型エンジンを搭載した九七式一号艦上攻撃機の特徴を良く再現している。また胴体下面には80番爆弾(800kg)が懸吊されている(吉川和篤撮影)

 また急降下爆撃機として開発され、爆弾しか装備することができなかった九九式艦上爆撃機とは異なり、九七艦攻は爆弾と魚雷の両方が搭載可能であったため、日中戦争や太平洋戦争の様々な戦いに投入されました。

 特に1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃では、空母から発進した九七艦攻143機のうち、魚雷を搭載して飛び立った40機がアメリカ海軍の戦艦4隻を含む6隻の艦艇を雷撃して、20本以上を当てる高い命中精度で大戦果を挙げています。

 しかし、戦争半ば頃からは速力不足も目立つようになったため、その地位を新型の艦上攻撃機「天山」に譲り、以後は練習機や対潜水艦用の哨戒機などとして使用されました。また1945(昭和20)年8月には、北千島に上陸したソ連軍(当時)上陸部隊に対して占守島の基地を出撃した九七艦攻が爆撃を行い、旧日本海軍艦上攻撃機として最後の戦闘を行っています。

地元の歴史を後世に伝える役割

 そうした艦上攻撃機の機種変更用として、鶉野飛行場に展開していた姫路海軍航空隊も練習機として九七艦攻を使用しました。ただ注意すべきは、ここに配備されていた九七艦攻は、太平洋戦争の嚆矢となったハワイ真珠湾攻撃で使用された三号ではなく、原型の一号だという点です。

 九七式一号艦上攻撃機は、「光」エンジンを搭載し、速力も三号より劣る最高速度350km/hでした。それでも、練習用としては問題なかったのですが、戦争末期の1945(昭和20)年2月には同機で教官や練習生による特別攻撃隊「白鷺隊」(はくろたい)が編成され、4月から5月にかけての5回の出撃で21機、合計63名が沖縄の空に散っています。

兵庫の平野に蘇った「九七式艦上攻撃機」空母関係ない場所になぜ?「紫電改」に次ぎ登場
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垂直尾翼には姫路海軍航空隊の所属で、沖縄への特別攻撃を行った「白鷺隊」(はくろたい)佐藤清大尉機を示す「ヒメ-305」が描かれている。また尾輪前には空母の着艦用フックもある(吉川和篤撮影)。

 今回、展示用として造られた九七艦攻の模型は、この「白鷺隊」の沖縄特攻機を再現したものです。そのため、機体下部には対艦攻撃用の九一式航空魚雷(838kg)ではなく、80番爆弾(800kg)を懸吊した状態になっていました。

 また尾翼のマークも「ヒメ-305」となっており、これは4月6日に鹿児島県の串良基地から沖縄に向けて出撃した、和気部隊護皇白鷺隊第3区隊の1番機であった佐藤清大尉の機体を示しています。

 ちなみに、この金属製模型は、茨城県水戸市の看板メーカーである広洋社が1年半かけて製作した物とのこと。同社は同じく鶉野飛行場跡に展示されている「紫電改」戦闘機の実物大模型も3年前に製作した実績を有しています。この「紫電改」の実物大模型、2022年3月現在は飛行場跡地奥の災害用備蓄倉庫で展示されていますが、4月からは新たにオープンする「soraかさい」に移されるそうです。

 これまで郷土の歴史のひとこまとして語り継がれていた鶉野飛行場の九七艦攻ですが、原寸模型という新たな依り代(よりしろ)を得たことで、来場者が戦争というものをイメージしやすくなることは間違いないでしょう。周りの戦争遺構と共に、未来に向けてその存在と歴史を伝える一助になることを期待します。

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