建造当初は世界最大だった旧日本海軍の戦艦「山城」が1917年の今日、竣工しました。目玉は6基12門の主砲。

しかし、その威力を存分に発揮する機会は訪れませんでした。なお戦前、特設した滑走台を用いた航空機発艦の試験を行っています。

「艦載機」の先駆けに? 滑走台の試験

 1917(大正6)年の3月31日は、旧日本海軍の戦艦「山城」が竣工した日です。扶桑型戦艦の2番艦である「山城」は、35.6cm連装砲を6基12門も装備していました。全長205m、基準排水量3万4000トンあまりと、当時は世界最大を誇りました。

主砲6基12門! 戦艦「山城」竣工-1917.3.31 航空...の画像はこちら >>

1934年9月、館山沖で撮影された戦艦「山城」(画像:アメリカ海軍)。

 実は「山城」は、旧日本海軍が本格的に航空母艦を建造する前の1922(大正11)年3月、航空機を運用する試験を行っています。第2砲塔の上に滑走台を特設し、イギリス製の艦上戦闘機を発艦、これは成功を収めました。ただ実戦には不向きなうえ、後に艦の速力向上のため艦尾が延長されると、その後甲板にカタパルトが設けられ、滑走台は撤去されました。

 ほかにも2番艦の「山城」は、主砲の爆炎を避けるべく艦橋を改造する、魚雷防御のため船内に2層の縦隔壁を設けるなど、1番艦「扶桑」からいくつも改良が加えられています。

「山城」はお召艦としても使われました。1927(昭和2)年7月には昭和天皇が乗艦されたほか、その後も観艦式や演習などに際し、皇族が招かれています。

そのような「山城」が本格的に戦闘に参加するのは、1941(昭和16)年に勃発した太平洋戦争からでした。

後方任務が主に… しかし駆り出されたレイテ

 初陣は1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦でした。しかし会敵機会は訪れず、後方任務に就くにとどまります。その後も老朽艦であったことなどから力不足と見なされ、主だった戦果は挙げられていません。

 しかし日本の敗色が濃くなると、「山城」も後方に下がってばかりはいられなくなりました。制空権・制海権ともに徐々にアメリカ側に握られていき、1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦で大敗を喫すと、旧海軍は総力を挙げてアメリカ海軍を撃滅するべく、フィリピンへ展開します。ここに、史上最大の海戦とも称されるレイテ沖海戦が勃発します。

「山城」は僚艦「扶桑」とともに参戦。1944(昭和19)年10月25日、フィリピン南東部のスリガオ海峡にさしかかりますが、アメリカ軍の圧倒的な戦力差に苦戦を強いられます。未明、魚雷艇や駆逐艦が放った魚雷が次々と「山城」に命中。4本目は弾薬庫に命中すると、大爆発を起こしながら「山城」は沈没。最初の攻撃から1時間足らずのことでした。

船体は真っ二つに裂けたといいます。

 このスリガオ海峡の夜戦では、「扶桑」も撃沈されています。艦対艦を意識し、主砲を多分に装備した大型戦艦は最期まで、その威力を存分に発揮できませんでした。

編集部おすすめ