日本が造った世界最大の戦艦「大和」。同艦は太平洋戦争末期、鹿児島県沖で沈みましたが、その一部始終の「目撃者」となったのが2機のアメリカ軍飛行艇でした。

戦艦「大和」の最期を見届けたこの飛行艇の概要に迫ります。

戦艦「大和」沈没の目撃者

 旧日本海軍が太平洋戦争末期に行った戦艦「大和」の海上特攻作戦は、ほぼ勝算が見込めないものでした。それでも、戦艦「大和」を旗艦とする旧海軍第1遊撃部隊の軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦8隻は、命令に従い目的地の沖縄へと向かい、1945(昭和20)年4月7日、鹿児島県の坊ノ岬沖でアメリカ艦上機群の集中攻撃を受け、「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦4隻が奮戦むなしく戦没しました。

 この時、日本の第1遊撃部隊とアメリカ空母搭載機の戦いを離れた場所から終始、監視し続けていた2機のアメリカ機がありました。マーチンPBM「マリナー」飛行艇です。

 旧日本海軍の誇りでもあった戦艦「大和」の最期を見届けた、知られざる「立会人」についてスポットを当ててみます。

戦艦「大和」&軽巡「矢矧」の最期に立会 米海軍飛行艇PBM「...の画像はこちら >>

海面を滑走するアメリカ海軍のPBM「マリナー」飛行艇(画像:アメリカ海軍)。

 アメリカ海軍は第2次世界大戦勃発前、長距離飛行や長時間滞空が可能な中型飛行艇として、コンソリデーテッドPBY「カタリナ」を装備していました。同機は運用が容易かつ信頼性に優れた優秀機だったことから、偵察や対潜哨戒、洋上爆撃、救難、輸送とさまざまな海洋任務に対応する便利な飛行艇として重用されていました。

 そのため、大戦初期には数々の武勲に輝きましたが、いかんせん戦前に開発された機体であり、アメリカ海軍は大戦勃発前の時点で、すでに後継機の開発に着手していました。

 担当したのはマーチン社で、1937(昭和12)年に「モデル162」として設計を開始。同年6月30日に、海軍からXPBM-1として発注を受けました。

「カタリナ」と同じ双発ですが、同機のエンジンが1200馬力級のプラット・アンド・ホイットニーR-1830「ツイン・ワスプ」だったのに対して、後継であるXPBM-1には、より高出力な2000馬力級のライトR-2600「ツイン・サイクロン」を採用。これにより、最大速度は飛行艇としては高速の330km/hを発揮できました。

外観の特徴は「ガルウイング」

 胴体は、内部容積を稼ぐためイギリスのショート・サンダーランドや日本の二式飛行艇(二式大艇)のように、全高が高めに設計されました。なお主翼は、離着水時に波浪がエンジンにかかるのを極力減らすことを狙い、胴体から斜め上向きに取り付けられ、途中から水平になっている、いわゆる「ガル翼(ガルウイング)」形状のものが採用されていました。また、尾翼は双垂直尾翼とされました。

 兵装は、胴体とエンジンナセルの間の左右の内翼部分に、懸吊する形で魚雷を1本ずつ計2本搭載。また、左右のエンジンナセル内部が爆弾倉になっており、ここには爆弾や増加燃料タンクなどを最大5.8t収納することができました。さらに、大戦中期に「フィドー(FIDO)」とも呼ばれるMk.24対潜誘導魚雷が開発されると、その運用能力も付与されています。

戦艦「大和」&軽巡「矢矧」の最期に立会 米海軍飛行艇PBM「マリナー」は何をしていたのか
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アメリカ海軍のPBM「マリナー」飛行艇。ほぼ正面からのため、ガル翼形状がよくわかる(画像:アメリカ海軍)。

 防御火力は徐々に強化され、最終的には機首、胴体中央上部、機尾にそれぞれ12.7mm重機関銃を備えた連装動力旋回銃座を1基ずつ備えたほか、胴体の左右両側面に単装の12.7mm重機関銃を1挺ずつ装備していました。

 ほかにも、洋上の捜索・監視用として航空探照灯を装備したほか、水上監視用レーダーや潜水艦捜索用の磁気探知機、ソノブイ、ECM(電子戦)機器など、当時最新の電測兵器類も順次搭載されています。

 XPBM-1は1939(昭和14)年2月18日に初飛行し、PBM「マリナー」として制式化されます。そして太平洋戦争勃発前の1940(昭和15)年9月から、部隊への配備が開始されました。

 特に太平洋戦域では、アメリカ軍が対日反攻作戦を展開するようになると、「マリナー」を装備する飛行艇哨戒爆撃中隊は、支援船である飛行艇母艦を洋上の拠点として用いることで、占領直後の島嶼の湾や環礁、水道などの静海面に素早く進出し、前進基地をいち早く開設。哨戒飛行の範囲を逐次前線へと延ばしていくという作戦運用を実施しています。

 一方、島嶼も敵艦も少ない大西洋方面では、ドイツ海軍潜水艦を狙った、いわゆる「Uボート狩り」に多用されました。

旧海軍の駆逐艦「冬月」ともニアミス

 1945(昭和20)年4月7日の坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」の最期を見届けた「マリナー」飛行艇は、沖縄本島南西部の沖合に位置する慶良間諸島から飛んできた機体でした。

 慶良間諸島の阿嘉水道にはアメリカ海軍の飛行艇母艦「シャンデルーア」が投錨しており、これにより、同水道が飛行艇の前進基地となっていました。

 同艦にはアメリカ海軍の第41飛行艇哨戒爆撃中隊(当時)が本部を構え、そこの所属機、コールサイン「ドッグ・エイト」と「ドッグ・テン」の2機が、戦艦「大和」以下旧海軍の第1遊撃部隊の動きを逐一監視していたのです。

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飛行するアメリカ海軍のPBM「マリナー」飛行艇(画像:アメリカ海軍)。

 両機は第1遊撃部隊を発見した当初、「大和」の46cm主砲による対空射撃を受けましたが、その後は、味方の艦上機群による攻撃を終始観察し続け、戦いが佳境に入った頃には、日本側の対空射撃によって撃墜され水面にパラシュート降下した味方、TBM/TBF「アヴェンジャー」艦上攻撃機のパイロット救助にも成功しています。なお、このとき着水・救出にあたった「ドッグ・テン」には、旧日本海軍の駆逐艦「冬月」から射撃が加えられています。

 かくして、世界最大の戦艦「大和」最期の目撃者となったPBM「マリナー」は、戦後もアメリカ海軍や同沿岸警備隊などで1956(昭和31)年まで運用が続けられました。

総生産機数は1366機(異説あり)。

 なお、同機はイギリスやオーストラリアなどにも供与されたほか、戦後はオランダやアルゼンチン、ウルグアイなどでも運用され、ウルグアイ海軍では、1964(昭和39)年2月まで現役でした。

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