空を飛ぶ鳥の目線を得て、戦争は大きく変容しました。18世紀の登場以来、戦場で使われ続ける気球の歴史を振り返りつつ、陸上自衛隊でいまなお運用される気球の役割について解説します。
ロシアがウクライナに侵攻して5か月目に入ろうとしています。各国によるウクライナ支援も、侵攻開始当初から内容が少しずつ変わってきており、最近ではアメリカからM777 155mm榴弾砲や高機動ロケットシステム(HIMARS)が供与されて話題になっています。また7月15日にウクライナのレズニコフ国防相が「最初のMLRSが到着した」とSNSに投稿しました。MLRSとは、陸上自衛隊も装備している多連装ロケット砲システムです。
しかしいくら大砲やロケット弾発射機の数だけ揃っても、戦力にはなりません。
陸自にて、観測気球の浮揚準備中。左の隊員が持っているのがラジオゾンデ本体、右の隊員が持っているのが降下用のパラシュート(画像:月刊PANZER編集部撮影)。
砲兵は、砲弾を発射する大砲の位置から直接見えない目標を撃つ、間接照準射撃が基本です。何十kmも離れた目標が見えない位置から射撃して無誘導の砲弾を命中させるには、目標位置を標定するだけでは足りません。大砲から撃ちだされた砲弾は物理法則に忠実に従って飛翔するはずですが、実際の弾道は物理計算通りにはいかないのです。
風向きや気温や、地球の自転も砲弾の弾道に影響を及ぼしますので、射撃の際にはこうした外的環境のデータを集め、物理学から地学、気象学まで動員して弾道の予測を素早く計算し、大砲の方向や角度、装薬(砲弾を撃ちだす火薬)量などをはじき出し照準に反映させなければなりません。こうした処理は迅速かつ正確に行う必要があります。

陸上自衛隊のMLRS(多連装ロケットシステム)(画像:月刊PANZER編集部撮影)。
1946(昭和21)年に開発された世界最初のコンピューター「ENIAC」は、アメリカ陸軍の弾道研究所で様々な条件での弾道を計算して、間接射撃照準の基礎となる射表を作成することを第一目的としていました。理系的能力と各種ツールを総動員しなければ砲兵は務まらないのです。最先端技術の集積のようですが、その中には時代遅れに見えるような気球も重要なツールとして登場します。
いまなお続く気球の軍事利用 始まりはフランス革命のさなか気球の軍事利用の歴史は18世紀に始まります。
人類が初めて空を飛んだのはフランスのモンゴルフィエ兄弟が発明した熱気球で1783年のことですが、1794年にはもう気球の軍事利用が始まり、フランス革命戦争ではフランス陸軍が、オーストリア軍とのフリュリュスの戦いで偵察のためにガス気球を使用しました。当時はまだ電話がなかったので、人が乗ったゴンドラから偵察結果を記した紙を地上に落として報告したそうです。科学者は気球の有用性を高く評価した一方で、軍司令官はほとんどその効果を認めなかったと記録されています。

1794年、フランス革命戦争におけるフリュリュスの戦いにて使用された気球の様子。勝利に貢献したことが説明されている。
固定翼機が発達した第2次世界大戦中にも、偵察や着弾観測、また敵航空機を妨害する阻塞(そさい)気球のために、各国の軍には気球部隊が存在しました。そして21世紀にはドローンが登場し、その役割を引き継いでいます。
しかし現代でも、砲兵部隊では気球が使われています。気象観測用に気温、湿度、気圧、風向、風速などを自動的に測定するセンサーを備えたラジオゾンデを飛ばすためのものです。

大型トラックに搭載して移動状態にある気象測定装置JMMQ-M5のゾンデ追跡処理装置(画像:月刊PANZER編集部撮影)。
陸上自衛隊で砲を扱う特科部隊のなかには、気象観測をはじめ野外測量などを担う観測中隊が置かれており、こちらでは気象測定装置「JMMQ-M5」という機材を使っています。その構成はラジオゾンデのほか、受信用アンテナ、風向風速計、ゾンデ追跡処理装置などとなっています。ラジオゾンデの気球専用天幕もあります。システム一式はコンテナ状で、トラックに搭載して移動することが可能です。
正確無比な天気予報 ただしとってもピンポイントラジオゾンデは、気球に吊るされて1分間に300mから400mほどの速度で上昇しながら、上空の気温、湿度、気圧などを観測したデータを無線送信機で送信し、ゾンデ追跡装置のアンテナが正確に追尾指向して受信します。20分後に2基目のラジオゾンデを揚げ、2基のデータを合成して気象報を作成します。

演習場に展開したゾンデ追跡処理装置。2基のアンテナが上昇するラジオゾンデを追尾指向する(画像:月刊PANZER編集部撮影)。
気球は約90分で上空30km程度に達すると、周囲の気圧が低いため膨張が限界に達して破裂し、ラジオゾンデはパラシュートで地上に降下します。
陸上自衛隊でもこのように定期的に気象観測を続けデータを蓄積させており、この作業は砲撃の精度を上げる重要なものです。

定時に浮揚させる。この時は18時だった(画像:月刊PANZER編集部撮影)。
砲兵とは、戦力化するには気象観測までやらなければならない、時間とお金が掛かる贅沢な兵科です。練度の高い砲兵は、そのぶん味方地上部隊からは「戦場の女神」と呼ばれて頼りにされています。さらに気象観測データを生かした陸自観測中隊の「天気予報」は地元密着の精緻さを誇り、現場ではメディアで流れる天気予報より頼りにされています。
ウクライナでは高機動ロケットシステム(HIMARS)の戦果が喧伝されています。GPSで誘導されるロケット弾は確かに高精度で、気球を上げるような手間は必要ありません。しかし現在供与されている12基と20日に発表された追加4基の計16基程度の供与数では、投射できる火力量はごく限られ、戦局全体に決定的な影響を与えるとは思えません。
前線で戦うウクライナ地上部隊にとって「戦場の女神」は数の多い大砲であり、女神が力を発揮するのに必要なのは大砲の性能や大きさ、砲弾の数ばかりではありません。
※一部修正しました(7月27日12時06分)。