アメリカが戦中戦後に開発した「世界最大の爆撃機」がB-36です。巨大核兵器での攻撃が想定された“モンスター”は、結局、実戦投入されることなく終わりましたが、ある要人の命を奪うことになりました。
1946(昭和21)年の8月8日、アメリカの航空機メーカー・コンベア(正式名称はコンソリデーテッド・ヴァルティー)が開発した爆撃機B-36の試作機が初飛行しました。現在まで「世界最大の爆撃機」と呼ばれる巨大な機体です。
アメリカ空軍博物館に保存されているB-36J(画像:アメリカ空軍)。
同機はアメリカ空軍の前身であるアメリカ陸軍航空隊が、航空機メーカー各社にヨーロッパ大陸を直接攻撃できる大型爆撃機の開発を要求して誕生したものです。アメリカが第二次世界大戦に参戦したのは、日本が同国ハワイの真珠湾を攻撃した1941年12月8日のことですが、それ以前からドイツを自国にとっての最大の脅威と位置づけており、1941年4月の時点で大型爆撃機の開発を要求していました。
アメリカ陸軍航空隊は航空機メーカー各社の提案を吟味した結果、1941年10月にコンベアの案を採用しますが、同社は間もなく、アメリカが参戦する第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で主力爆撃機として使用されたB-24の生産に追われるようになります。そこで航空隊はコンベアに対し、B-36の開発ペースを落として、B-24の生産に専念するよう指示していました。
ヨーロッパの戦いに勝利できそうな目途が立った1943年7月、アメリカ陸軍航空隊は日本との戦いに使用する目的で、B-36について100機の量産をコンベアに発注しています。
しかしこのころには島嶼争奪戦で日本から獲得した太平洋の島々からB-29を発進させて日本の本土を爆撃できる目途も立っていたため、量産はせかされず、試作機は日本がポツダム宣言を受諾してから5日後の1945年8月20日に完成。それから約1年後の1946年8月8日に、ようやく試作機が初飛行したというわけです。
巨大核兵器に使える! けど海軍が大反対B-36は全長49.4mという巨大な胴体の半分以上が爆弾倉で、日本に甚大な被害を与えた重爆撃機B-29の4倍以上にあたる8万7200ポンド(約3万9600kg)以上の爆弾を搭載できる能力を備えていました。
このB-36の開発当時、アメリカは全長7.6m、総重量4万2,000ポンド(約1万9000kg)の巨大な核兵器、Mark.17水素爆弾の開発を進めていました。
B-36は1948年から運用が開始されましたが、その2年後に勃発した朝鮮戦争では、B-36と同様にレシプロエンジンで飛行する巨大な爆撃機のB-29や、その改良型であるB-50が、ジェット戦闘機のMiG-15によって次々と撃墜されていたことなどもあって、B-36は朝鮮戦争に投入されることはありませんでした。

試作機のXB-36。まだジェットエンジンがついていない(画像:アメリカ空軍)。
こんな大型爆撃機は、今後の戦争では役に立たないのではないか――そのような声もアメリカ国内で聞かれるようになりました。
この意見の急先鋒となったのは誰あろうアメリカ海軍でした。海軍はジェット戦闘機に対して脆弱で、巨大であるが故に高価なB-36のような爆撃機を導入するよりも、AJ 「サヴェージ」やA3D「スカイウォーリアー」といった核兵器運用能力を持つ攻撃機と空母を導入した方が合理的であるとして、B-36を「10億ドルの失敗」と呼んで批判していました。
B-36が奪った命はただ一つ「味方の超偉い人」アメリカ海軍はこのころ、核兵器を運用可能な攻撃機を搭載できる超巨大空母「ユナイテッドステーツ」の建造を計画していました。アメリカ海軍のB-36批判は、同機の導入により国防予算に「ユナイテッドステーツ」を建造する余裕がなくなり、また超大型空母と核兵器を運用可能な艦載攻撃機の存在意義が失われることを恐れたが故のことでした。
これは要するに、アメリカ軍内の予算獲得合戦なのですが、空軍と海軍、さらには国防費の抑制を主張するトルーマン大統領の間で板挟みとなったジェームズ・フォレスタル国防長官は心労により長官職を辞職。辞職から2か月後には自ら命を絶ってしまいました。
B-36は、本格的なジェット爆撃機であるB-47やB-52が実用化されたこともあって、1948年の就役からわずか11年後の1959年に退役しています。

本格的な大型ジェット爆撃機のB-52。これらの実用化により、B-36は短命で終わった(竹内 修撮影)。
とはいえ、その間B-36は一度も実戦には投入されていません。開発時に想定されていたドイツや日本、第二次世界大戦後に想定されていた旧ソ連への攻撃にも用いられず、奪った生命が自国の国防長官一人というのは、なんとも皮肉な話と言えるでしょう。
B-36はその巨大さゆえ、現存している機体が5機しかありません。筆者(竹内 修:軍事ジャーナリスト)はアメリカ・アリゾナ州にあるピマ航空宇宙博物館で保存されている機体を見学したことがありますが、搭載を想定していた核兵器で世界を破滅させていたかもしれず、またアメリカ軍内の争いで国防長官を自死に追い込んだ爆撃機であるという潜入感を持っていたせいか、砂漠で翼を休めるその姿を目にした時、軽い身震いを禁じ得ませんでした。