東海環状道の「左上」にあたる山県IC-大野神戸IC間が2025年に開通し、岐阜県内が全通します。新たにつながる山県市、大野町に鉄道はありませんが、かつては存在しました。

「名鉄沿線」だった東海環状道沿線

 東海環状道の「左上」にあたる山県IC-本巣IC間が2025年4月6日に、さらに本巣IC-大野神戸IC間が夏に開通し、岐阜県内が全通します。新規区間は、東海道本線の北側に広がる濃尾平野の北部を斜めに横断するような線形で、山県市や大野町といった、岐阜市から放射状に道路が延びる近郊都市どうしをつなぎます。

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矢印が名鉄揖斐線の廃線跡。建設中の東海環状道がまたぐ(乗りものニュース編集部撮影)。

 この途中で交わる鉄道は、大垣駅から北へ延びて本巣市を貫く樽見鉄道のみで、山県市も大野町も鉄道はありません。しかし昔は存在しました。東海環状道の新規区間は、その「廃線」とも交差しています。

 この地域は実は、かつて“名鉄の牙城”でした。

 山県市(旧高富町)には名鉄高富線が、大野町には名鉄揖斐線がそれぞれ通じていました。これらは、岐阜市内の道路上を走る岐阜市内線と直通し、現在の名鉄岐阜駅、JR岐阜駅前に発着していたのです。

 高富線は1960年代に廃止されていて痕跡はありませんが、揖斐線と岐阜市内線が廃止されたのは21世紀に入ってからです。特に専用軌道だった揖斐線は、そこかしこに痕跡が残っています。

 これら岐阜市内線と直通していた名鉄の各線は、最後まで架線電圧600Vから昇圧しなかったことから「600V線」とも総称されます。

電車が渋滞に巻き込まれていた路面区間

 揖斐線の電車は、現在の名鉄岐阜駅前を経て、国道157号のルートで長良川に架かる「忠節橋」を渡っていました。これが岐阜市内線の一部です。

 岐阜市内線は、道路が狭いため軌道式内への自動車の走行が認められていたことから、電車がクルマの渋滞に巻き込まれ、定時性を維持できなかったのも廃止の一因とされます。2005年の一斉廃止後、この路面区間の痕跡はほぼなくなっています。

 痕跡が残るのは、忠節橋を過ぎて早田大通一丁目交差点から始まっていた専用軌道区間です。この近くの忠節駅が揖斐川線との接続点で、ここから揖斐川町の本揖斐駅までと、途中の黒野駅(大野町)から分岐して北の谷汲(揖斐川町谷汲)に至る「谷汲線」の2路線が通じていました。

 揖斐線末端の黒野-本揖斐間と、谷汲線が廃止されたのは2001年のこと。そして2005年には岐阜市内線とともに揖斐線の忠節-黒野間も廃止されています。

ほぼ「あの時のまま」の駅も

 廃止から20年を経て、揖斐線の専用軌道区間も、岐阜市街に近いところは宅地化などが進み、徐々に失われつつあります。一方、残った軌道跡にところどころソーラーパネルが置かれているのも目立ちました。

東海環状道の下に「鉄道廃線」あった! 実はかつての“一大路線網” 高速開通の裏で失われていく痕跡
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廃止当時の電車が残る谷汲駅跡(乗りものニュース編集部撮影)。

 一方、伊自良川から西は、ほぼ全線にわたり、その跡をたどれます。東海環状道とは本巣市内、かつての真桑-政田間で廃線跡が交差しています。

 終点だった本揖斐駅跡は、交通広場があるほかは、ほぼ失われています。一方、2001年から4年のあいだ終点となった黒野駅跡は公園化され、ホームの一部と当時の駅舎(内部は改装済み)を残した「黒野駅レールパーク」として整備されています。

 廃止当時の駅がほぼ“そのまま”残り、当時の電車も保存されている最大の「遺構」と言えるのが、2001年に廃止された谷汲線の終点、谷汲駅です。それもそのはず、昆虫館を併設した駅舎は、廃止5年前の1996年に建てられたものでした。ちなみに名鉄の600V線は、名鉄が廃止表明を打ちだす直前まで新型車(美濃町線用)が投入されたりもしていました。

 しかし、もともとスピードが遅いうえ、岐阜市内の路面区間もあり、黒野から新岐阜(現名鉄岐阜)駅前まで50分近くかかっていました。他方、東海道本線がJR発足後に大きく輸送を改善したことも、廃止の一因として言われます。確かに大垣駅や穂積駅に出れば、岐阜は10分ほど、名古屋までも40分ほどで着いてしまいます。

 結果的に“根こそぎ廃止”となった名鉄600V線の沿線にできた高速道路は、再び人の流れを変えるのでしょうか。

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