嘉手納基地には実は旧日本軍の特攻兵器「桜花」を隠した格納庫があります。なぜここにあるのでしょうか。
1945年日米が激しい地上戦を繰り広げた沖縄県に、旧日本軍の特攻兵器「桜花」を隠した格納庫が残されています。しかもそれは、米空軍嘉手納基地の敷地内にあるのです。なぜここにあるのでしょうか。
嘉手納基地(画像:アメリカ空軍)。
「桜花掩体壕跡群」と呼ばれるこの戦跡は、基地の中ゆえに日本人は滅多に見ることはできません。このため、今回嘉手納基地へ申請し現状を見てきました。
掩体壕とは厚いコンクリートの壁と天井で、航空機を空襲や砲撃から守るシェルターの役目を果たします。現在も航空自衛隊をはじめ、各国の軍で用いられています。
桜花の掩体壕が建設されたのは、壕跡群前のある日本語と英語の説明版によると、1944年6月から1945年3月、日本側の調査では1944年4月から9月の間とされています。いわば、嘉手納基地が陸軍中飛行場と呼ばれた第2次世界大戦末期、米軍の来襲に備えて急ピッチで進められたのです。
掩体壕は当然、上空からの敵の偵察に見つかりにくくしなければなりません。
桜花自体については、日本側の資料では中飛行場には10機が配備されたものの出撃することなく、米軍の上陸により日本軍が破壊。無傷だった4機が米軍の手に落ちたとされています。そしてここは、桜花の掩体壕としては沖縄県内に残る唯一のものであるものの、基地の中ゆえに一般の日本人は容易に近づくことはできません。
立入禁止だけど実は「保存状態はヨシ?」嘉手納基地内に残る掩体壕は、計8基とされています。今回見ることができたのは基地内を東西に貫くダグラス通りの南東にあり原型を残すものが3基、基礎部分らしきものが1基でした。大きさは幅が約7.4m、奥行きは14m、中央部の高さは2.8mとのこと。土石を盛って上にコンクリートを流して固め、その後に土砂を取り出して完成させたと考えられています。コンクリートの壁と天井は厚さが40~50cmあり、木枠の板目跡が大きく残る荒い仕上げの表面は急造仕立てであったことを今に残しています。
3基のうち2基は入り口に金網が張られ、もう1基は天井の崩落を防ぐため内部に土砂を詰めていることから、いずれも内部を細かく観察することはできませんでした。ただ、金網越しにのぞくと木材で組んだやぐらが天井を支えているのが見え、こちらも崩落防止が図られているのが分かりました。
日本側の調査にもあったように、掩体壕の保存状態は総じて良好でした。
軍の施設内はどの国でも清掃が行き届いていますが、桜花の掩体壕も周辺は確かにきれいに草が刈り取られていました。立地上日本人は容易に見ることができないものの、沖縄線を語り継いでいく証人として掩体壕が保存されていくことを願います。