太平洋戦争を最初から最後まで戦い、同型の甲型駆逐艦(陽炎型および夕雲型)計38隻中、ただ1隻だけ戦没を免れた幸運艦「雪風」。そのような艦歴ゆえに、旧日本海軍の艦艇としては戦艦「大和」に比肩すると言っても過言ではないほどの知名度を誇ります。
「雪風」は戦後、復員船に転用されたのち、1947(昭和22)年7月に賠償艦として中華民国(台湾)に引き渡されて、その名を「丹陽」に改めています。
しかし、それから8年後、同名艦が日本で生まれていることはあまり知られていません。1955(昭和30)年に生まれた新たな「雪風」とは、いったいどのような艦だったのでしょうか。
2代目は平仮名で「ゆきかぜ」と表記されます。この艦は海上自衛隊用の護衛艦として造られました。
海上自衛隊は1954(昭和29)年に発足しましたが、当初装備していたのはアメリカから貸与された中古のパトロール・フリゲートや上陸支援艇に、旧日本海軍の駆逐艦を引き揚げて改修した「わかば」(旧名「梨」)などでした。
中古艦艇がほとんどであったことから、国産の護衛艦(当時の名称は警備艦)を新造しようという機運が発足当初から出ました。こうして国内で戦闘艦の建造が再び動き出すのですが、初の護衛艦に求められた任務遂行能力は、船団護衛、対潜哨戒、海上救難、漁業保護など多岐にわたっており、さらに旗艦として活動できる能力も要求されました。
こうして生まれたのが戦後初の国産護衛艦、はるかぜ型です。1番艦は「はるかぜ」と命名され、その2番艦に「ゆきかぜ」の艦名が与えられましたが、これは日本の戦闘艦として初代「雪風」に続く命名となりました。
はるかぜ型は、設計に際して旧海軍の白露型や朝潮型駆逐艦をベースにしながら、アメリカのフレッチャー級から発展した最終型となるギアリング級駆逐艦のデザインも盛り込まれています。そのため船体は、旧日本海軍式の船首楼型ではなく、アメリカ海軍式の平甲板型となっています。
また、艦首の喫水線下は造波抵抗の減少を目的にバルバス・バウが採用されましたが、ここは万一、浅い水深で行動中の敵潜水艦を発見した際に、体当たり攻撃も行えるよう、相応の強度が付与されています。
艦隊旗艦の大役 最後は標的にも居住性の面では、旧日本海軍式のハンモックを廃して、アメリカ海軍式の3段ベッドが導入されました。ただし、予備として一部にハンモック用吊金具も設置されていたとか。ただ、乗員区画は旧日本海軍の駆逐艦とほぼ変わらない狭さで、快適性はそこまで高くなかったようです。
1940年に佐世保で撮影された、旧日本海軍の駆逐艦「雪風」(画像:アメリカ海軍)。
機関は蒸気タービンで2軸推進。機関部は缶室・機械室のシフト配置で、前の1セットが左舷スクリュー、それに続く後ろの1セットが右舷スクリューを回しています。そして最大速力は約31ノット(約57.4km/h)、航続距離は18ノット(約33.3km/h)で約6300海里(約1万1670km)でした。
新造時の基本兵装は5インチ(127mm)単装砲塔3基、40mmボフォース4連装機銃2基、対潜水艦用多連装迫撃砲「ヘッジホッグ」2基、爆雷投射器8基、爆雷投下軌条2本です。
艦籍番号DD-102を付与された「ゆきかぜ」は、1954(昭和29)年12月17日に新三菱重工業(現在の三菱重工業)神戸造船所で起工され、1955(昭和30)年8月20日に進水、約1年後の1956(昭和31)年7月31日に就役しています。
その後、1957(昭和32)年4月から1961(昭和36)年7月までの間、自衛艦隊旗艦(当初は第1護衛隊群旗艦を兼務)という大役を務めたほか、1963(昭和38)年には、邦画『駆逐艦雪風』で、先代「雪風」の代役にも抜擢されました。
後年には各種新装備をテストするための試験艦となったり、特務艦へと種別変更されたりしながら、艦籍番号もASU-7003に変えられています。
なお、旧日本海軍の「雪風」が1940(昭和15)年1月の竣工から台湾軍艦「丹陽」として除籍するまで30年だったのに対し、自衛艦「ゆきかぜ」は就役から除籍まで29年と1年短く終わっています。
以後、「ゆきかぜ」の艦名が付けられた自衛艦は登場していません。いったい3代目「ゆきかぜ」は生まれるのか、もし登場するなら、どのような艦種、艦型に用いられるのでしょうか。興味は尽きません。