中央本線の小淵沢駅で販売されている駅弁「元気甲斐」は、紀行作家の宮脇俊三さんもお気に入りだったという名物駅弁。実はテレビ番組のタイアップで作られ、そうそうたる人々が関わり誕生したものです。
八ヶ岳の山麓に位置し、JR中央本線と小海線が接続する小淵沢駅(山梨県北杜市)。この駅では、地元の駅弁業者「丸政」が1929(昭和4)年から、構内で駅弁の販売や立ち食いそば店の営業をしています。
小淵沢駅ホームにある丸政の売店。看板商品は「元気甲斐」(oleolesaggy撮影)。
丸政は昭和40年代には全国でも珍しい、生野菜を豊富に使った「高原野菜とカツの弁当」を販売し人気を博します。しかし、その後の観光ブームで清里など小海線沿線地域が注目されたうえ、県都の甲府駅も比較的近いため、一時は「小淵沢で駅弁を買ってもらえない」状態に陥りました。
その丸政の歴史を変えたのが、1985(昭和60)年10月に発売された「ふもとの駅弁・元気甲斐」(以下「元気甲斐」)です。上下2段に14品目のおかずを詰め込んだ駅弁は話題を呼び、発売当日には3000人以上が訪れ、新聞に「駅弁騒動」とまで書かれるほどでした。
それまで小淵沢の駅弁は1日80食から150食程度の売上でしたが、このときは2500食を完売。遠く岡山や仙台から来た人々の中には「元気甲斐」にありつけず帰った人もいたとか。その後も人気は続き、『時刻表2万キロ』などで知られる紀行作家の宮脇俊三さんも、この駅弁が大のお気に入りだったそうです。
発売時にこれほどの注目を集めたのは、この駅弁が当時のテレビ番組「愛川欽也の探検レストラン」(テレビ朝日系列)とのタイアップで生まれたものだったから。
番組ではまず、司会兼「おせっかい」担当である愛川欽也さんの号令の下、『マルサの女』などで知られる映画監督の伊丹十三さん、評論家の山本益博さんらが「駅弁シンポジウム」を開き、全国の有名駅弁を研究しつつ、全体の構想を練りました。そして弁当は上下2段構成と決まり、各段のメニュー開発は関東・関西の有名料亭に委ねられます。
上段(一の重)を開発したのは京都の「菊乃井」。いまでは関西版の「ミシュランガイド」で9年連続三ツ星を獲得するほどの料亭です。蓋を開けると、くるみご飯や、セロリやアスパラガスなど高原野菜の突き出しで構成。下段(二の重)は東京の料亭「吉左右」によるもので、大きめの栗がごろごろ入ったおこわや、鶏のゆず味噌和えが入ります。

「元気甲斐」のパッケージは登場当時から変わらない(oleolesaggy撮影)。
そして掛紙には、ポップなイラストと「ヤッホー」の描き文字が。手掛けたのは、村上春樹作品の装丁などで知られる安西水丸さん。デザインは資生堂のデザイナーとして知られる太田和彦さんがまとめ、さらにBMWのキャッチコピー「駆け抜ける喜び」などで知られるコピーライターの岩永嘉博さんが「ふもとの駅弁・元気甲斐」と名付けました。その名を書にしたためたのは、黒沢 明監督の映画『乱』のタイトル文字で知られる書家の今井凌雪さん。
全体を伊丹十三さん、山本益博さんがまとめ、昔の鉄道で使われていた飲料用の土瓶(汽車土瓶)を再現した「お茶土瓶」までも、北欧デザインの大家である島崎 信さんに作ってもらいました。試食は、映画撮影であらゆるロケ弁当を食べ尽くしている「伊丹組」が務め、ついに「元気甲斐」は完成したのです。
30余年の人気は「実力」あってこそ「探検レストラン」は1984(昭和59)年10月、22時台に放映が始まり、その後19時台のゴールデン時間帯へと移行したものの、周辺時間帯で放映されていたほかの番組と比較すると人気はそれほど高くなく、1987(昭和62)年3月に終了しました。しかし、熱心な視聴者の心をつかみ、「元気甲斐」の驚異的な売り上げを勝ち取ったのです。
なお、番組制作に携わった「フルハウステレビプロデュース」は後に「ハウフルス」と社名を変え、ノウハウを生かして「チューボーですよ!」「どっちの料理ショー」などのグルメ番組を世に送り出しています。

「探検レストラン」の企画内で「元気甲斐」とともに作られた「お茶土瓶」。小淵沢駅でいまも販売されている(oleolesaggy撮影)。
とはいえ、いくら優れたモノを開発しても、品質を保ち続けなければ客は離れてしまいます。この駅弁の品質と人気を番組終了後も保ち続けてきたのは、老舗の駅弁調製業者である丸政の実力あってのことでしょう。
ちなみに、「探検レストラン」の企画内で開発されたもののひとつに、キリンビールが製造する「ハートランドビール」があります。こちらも歴史を積み重ね、いまではキリンビールのなかでも「ラガー」に次ぐ古参ブランドに。
※記事制作協力:風来堂、oleolesaggy