世界が「航空母艦」を発明したころ、日本もまた初の空母「鳳翔」を建造しました。その後に続くすべての日本空母の祖は、一方で、太平洋戦争後に生き残ったわずかな空母の1隻でもあります。
海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦「いずも」が事実上の空母化決定――2018年も終わりに近づいた12月、このニュースに驚いた人も多いことでしょう。この「いずも」の空母化には、まだまだ越えなければいけないハードルがたくさんありそうですが、かつて日本は旧海軍において、数多くの空母を建造していた実績があります。
1922年11月、全力公試中の鳳翔(画像:アメリカ国立公文書記録管理局)。
さて、その旧日本海軍の空母ですが、最初の足跡ともいえる日本空母の「祖」となったのが、1922(大正11)年12月27日に竣工した空母「鳳翔」でした。
当時はまだ、「航空母艦」という概念がようやく生まれた時代。1921(大正10)年11月から翌年にかけて開催された「ワシントン軍縮会議」で初めて、「航空母艦とは水上艦船であり、航空機を搭載する目的で建造され、航空機はその艦上から離発着できるもの(意訳)」と定義されたものの、その時点で竣工していたのは、イギリス軍の空母「フューリアス」「ヴィンディクティブ」「アーガス」と、アメリカ海軍の「ラングレー」のみでした。
しかも、すべて最初から空母として建造されたものではなく、もとは石炭運搬船だったり客船だったりしたものを、改造し空母としたものばかり。そのようななか、竣工したのが日本海軍の空母「鳳翔」でした。「最初から空母として建造された、世界初の空母」です。
模索期ゆえの試行錯誤も世界初の新造空母として誕生した「鳳翔」ですが、実は計画時は空母ではありませんでした。なぜならば、「航空母艦」という艦種ができたのは、同艦が起工される年の春先(1920年4月1日)だったからです。そのようなわけで計画時には特務船(後に特務艦に変更)「龍飛(たっぴ)」として進められ、起工準備中に艦種区分を航空母艦に変更しました。
実は、計画時から空母として建造が開始された艦艇としては、イギリス軍の「ハーミーズ」が最初でした。しかし建造途中で第1次世界大戦が終結、イギリスとしては建造を急ぐ必要がなくなったため、その完成は1924(大正13)年にまでずれ込み、結果として1922(大正11)年に完成した「鳳翔」が一番、となったのでした。

1922年、千葉県館山沖で公試中の鳳翔(画像:アメリカ国立公文書記録管理局)。
さて、完成当時の「鳳翔」の姿を見てみましょう。長さ168.25m、幅22.7mの全通飛行甲板(艦首から艦尾まで一直線で繋がる平らな甲板)に、アイランド構造(島型で小型のもの)の艦橋が右舷前方に備えられました。艦橋のすぐ後ろには、艦載機の離発着に邪魔にならないよう、そして排煙が甲板を覆ってしまわないよう、必要に応じて倒せる起倒式の煙突が3本設置された、堂々たる姿です。全長は飛行甲板と同じ168.25mで、基準排水量は7470トン、速力約25ノット、乗員約550名、搭載航空機は15機+補用6機で、兵装は50口径14cm単装砲が4門、40口径7.6cm単装高角砲が2門、7.62mm単装機関銃が2挺、すべて航空機発着の邪魔にならないよう、艦内引き込み型となっていました。
その後は改装を重ね、1924(大正13)年には艦橋をすべて撤去、煙突も倒した状態で固定され、甲板上は文字通り、まっさらな状態となりました。
そして「保母さん」へそして日本は、戦争の時代へと突入していきます。空母「鳳翔」は1932(昭和7)年の「第一次上海事変」と1937(昭和12)年の「支那事変」に参加。1941(昭和16)年12月の「太平洋戦争」開戦時には、日本は「鳳翔」を含め、改造、新造あわせて9隻もの空母を保有するまでに至っていました。
「鳳翔」も、いったんは空母「瑞鳳」や駆逐艦「三日月」「夕風」と共に第三航空戦隊を編成していましたが、大きな海戦に参加することもなく、翌1942(昭和17)年4月の戦時編成改訂にともない、第三航空戦隊は解隊されました。

1923年2月5日、横須賀沖の空母鳳翔。飛行甲板上に一〇式艦上戦闘機が見える(画像:アメリカ国立公文書記録管理局)。

1932年、第一次上海事変に参戦した時の鳳翔(画像:アメリカ国立公文書記録管理局)。

1945年10月、終戦後に上空から撮られた空母鳳翔(画像:アメリカ国立公文書記録管理局)。
同年6月に、「鳳翔」は「ミッドウェー海戦」などにも参加しますが、ほかの大型空母と比べれば、その形も装備もやはり「一世代前」の空母です。実戦で活躍することは難しく、やがて空母搭乗員の着艦訓練用として、あるいは潜水艦の標的艦として運用されるようになっていきました。
そして1944(昭和19)年には、航空機の大型化に対応するため甲板を延伸、180m以上にまで伸ばした結果、外洋での航行が難しくなり、瀬戸内海から出ることができなくなってしまいました。
こうして、訓練艦として瀬戸内海から出ることもなくなった「鳳翔」の様子を、当時の艦長は「保母さんのようだった」と回想しています。
戦火を生き抜き最後の奉公1945(昭和20)年に入ると、燃料の不足から、「鳳翔」は呉周辺での停泊留置が多くなりました。このころになると、周辺では軍港を狙った空襲も多くなり、呉も3月には大空襲を受けることになりますが、「鳳翔」は、運よく損傷を免れました。
最終的には、空襲で大破したほかの艦艇から、25mm機関銃(旧日本海軍では、口径40mm未満は機銃に分類)などを取りはずし「鳳翔」に装備、防空砲台として活用され、そのまま終戦を迎えることになりました。

1945年10月13日、呉で米海軍が撮影した鳳翔。飛行甲板が前後共に艦体最大限まで延ばされているのがわかる(画像:アメリカ国立公文書記録管理局)。
こうして、運よく大戦を生き抜いた幸運艦には、戦後も活躍の場が用意されました。飛行甲板の前部を撤去したうえで、復員輸送艦として運用され、約1年間で日本と南方の島を9往復し、約4万人の日本兵と民間人を祖国まで運んだのです。そして1946(昭和21)年8月にその任務を終えると解体され、その長い生涯を閉じたのでした。
「世界最初の新造空母」として竣工し、新たな時代の最先端となりながらも、太平洋戦争での活躍はごくわずか。しかし、そのために大戦を生き延び、戦後まで活躍することができたという数奇な運命をたどった「鳳翔」。
この縁起のよい艦名を、21世紀になったいま、受け継ぐ護衛艦は登場するのでしょうか。そしてやはり、もし仮にその名を受け継いだ艦が登場した場合、どのような姿なのか。想像し出すと興味が尽きることはありません。
【写真】米海軍空母の祖、「ラングレー(CV-1)」

米空母の祖は、石炭を補給する給炭艦「ジュピター」からの改造航空母艦で、船体分類記号CV-1を振られた「ラングレー」。