首都の玄関口、東京駅。ここはかつて、2人の首相の暗殺現場となりました。
「東京駅 超特急つばめ号殺人事件」。トラベルミステリー小説のタイトルのようですが、いまから89年前の1930(昭和5)年11月14日、実際に起きた事件です。
銃撃されたのは浜口雄幸首相。場所は東京駅第4ホーム、神戸行き超特急「燕(つばめ)」に乗車しようと歩いていたのを、急進的右翼の青年に狙われました。浜口首相の軍縮政策が天皇の統帥権干犯にあたると主張し、強く反発したためです。
腹部を撃たれた浜口首相は、応急手当と手術の甲斐あって一時は快方に向かいましたが、結局このときの傷が原因で、翌年8月に逝去します。
東京駅中央通路脇にある浜口首相遭難現場の解説板(2019年11月、内田宗治撮影)。
この事件なら高校の歴史授業で習って知っている、という人も多いかもしれません。ですが、この銃撃地点の歴史を知ると、まったくの偶然とはいえ、何ともミステリアスな気分になってきます。
東京駅の場所について歴史を追ってみましょう。
明治時代に入ると環境は一変します。このあたりには、司法関連の施設が並び立ちます。明治時代前期の地図(五千分一東京図測量原図)を見ると、北から順に法学校、監獄署、司法省、警視庁、大審院(最上級審の裁判所)、東京裁判所などの建物が並んでいます。現在の駅前(皇居側)は、東京鎮台騎兵営などでした。陸軍騎兵の兵舎などが並び、馬もたくさんいたことでしょう。
そうした場所を一度更地のような状態にして、1914(大正3)年に東京駅が開業します。1930(昭和5)年には、浜口首相銃撃のひと月半前の10月1日、東京~神戸間に超特急「燕」が登場します。この列車は歴史的に数ある名列車のなかでも特筆される存在で、同区間の所要時間をそれまでより一気に2時間以上も短縮して、9時間で走破するものでした(東京~大阪間は8時間20分)。通称「超特急」の文字が冠せられたのもうなずけます。
現在の東京駅中央通路9・10番線ホーム下付近の柱に「浜口首相遭難現場」の解説板、付近の床には、銃撃された地点を示す菱形のプレート(中心にびょうの印)が埋め込まれています。大勢の人がそこを行き来していますが、解説板やプレートに気づく人はほとんどいないようです。
ちょうどその地点は、先ほどの明治時代の地図を見ると、司法関連の施設が立ち並ぶなかでも、監獄署があった場所です。
一般的な例として、当時の監獄では、そこで処刑が行われた所もありました。そうしたことを想像すると、この銃撃地点に土地の因縁のようなものを感じてしまいました。何か呪われた地点のような気がしたのです。
監獄署と銃撃地点の関係は偶然のことで、私(内田宗治:フリーライター)の勝手な想像、妄想のたぐいですが、土地の歴史をたどっていくと、以前は現在とずいぶん違う施設があったことに驚いたり、いろいろと興味深いことに気づいたりすることを示したくて、述べてみました。

東京駅の赤れんが駅舎南ドーム。写真正面奥が原首相遭難現場(2019年11月、内田宗治撮影)。
東京駅では、1921(大正10)年11月4日、政友会京都支部の大会に出席のため丸の内南口改札に向かっていた原 敬首相が、青年に短刀で刺されその場で命を落とすという事件も起きています。政友会の強引な政策に不満を持ったという青年による暗殺でした。
事件は19時20分に起きているので、当時の時刻表で調べると、原首相は19時30分発の急行神戸行き列車に乗車しようとしたようです。
当時の東京駅は長距離列車の場合、乗車用と降車用の改札口が別々で、それぞれ1か所ずつしかありませんでした。乗車用が南口(赤れんが駅舎南ドーム内)、降車用が北口(同北ドーム内)です。中央口は皇室専用などで、八重洲口側には改札口がありませんでした。
現在、東京駅の赤れんが駅舎南ドーム内(丸の内南口改札を出た所)の乗車券自動販売機付近の壁に「原首相遭難現場」の解説板、付近の床にその地点を示す印が埋め込まれています。

現在の東京駅赤れんが駅舎。写真左が北ドーム(2019年11月、内田宗治撮影)。
東京駅は1923(大正12)年9月1日の関東大震災では、周囲の広域火災で留置線などの車両が多数焼失したものの、赤れんが駅舎はほとんど被害がありませんでした。
一方、太平洋戦争では1945(昭和20)年5月25日、B29による空襲で北口のドームに焼夷弾が落ち、火は駅舎の中を中央口から南口へと燃え広がってしまいました。内部はほぼ丸焼けとなり、1947(昭和22)年に2階建てとして復旧、平成24(2012)年に3階建ての戦前の姿に復元されました。
現在、東京駅赤れんが駅舎は、周囲に林立する高層ビルに見下ろされながらも、威風堂々とした貫禄を感じさせています。