旧海軍の超ド級戦艦「大和」は、同名艦としては2代目です。その知名度に比べ初代「大和」のほうはあまりに知られていないといえるでしょう。
「大和堆(やまとたい)」とは、日本海中央に位置し、日本の排他的経済水域(EEZ)にある水深の浅い部分のことで、漁業資源が豊富な海域です。2020年現在の昨今では、北朝鮮の漁船による不法操業が問題になっている現場としても、広くその名が知られるようになりました。
ところでこの「大和堆」という名称は、日本海軍所属だった軍艦「大和」が由来です。しかし、あの戦艦「大和」のことではありません。太平洋戦争を戦った超ド級戦艦「大和」は、日本海軍の同名艦としては2代目で、そして大和堆の由来は初代「大和」のほうなのです。
1887年11月、竣工時の「大和」。海軍省への引き渡し時の撮影と推定される。
初代「大和」は1887(明治20)年11月16日に、神戸にあった小野浜造船所で竣工しました。姉妹艦として1888(明治21)年2月9日に、「武蔵」が就役しています。
ネームシップは初代「葛城」で、「大和」は2番艦、「武蔵」は3番艦でした。ご存知の通り「大和」と「武蔵」は昭和の時代に、2代目同士が再び姉妹艦となります。
「大和」は当時としては一般的な3本マストの、汽帆兼用(帆走と蒸気機関による航行が可能)で鉄骨木皮製である、「スループ」と呼ばれるカテゴリーの軍艦でした。ドイツの軍事メーカー、クルップ製の170mm単装砲2基、120mm単装砲5基を装備し、1894(明治27)年の日清戦争では、清国の沿岸砲台と砲撃戦を行っています。
1898(明治31)年には海防艦に類別され、1902(明治35)年以降は第一線から退いて海防艦のまま測量任務に就いていましたが、1904(明治37)年からの日露戦争時には旧式化していながらも第三艦隊に配属されました。やがて1922(大正11)年4月1日、「武蔵」とともに、正式に測量艦となります。
測量艦「大和」の地味ながら重要な活動戦艦「大和」に対して測量艦「大和」というのは、とても地味に聞こえます。しかし、いまも昔も、海底の地形を把握しておくことは海軍にとって大変重要で、測量という行為には政治的な意味も大きく関わっています。初代「大和」も戦艦「大和」に劣らない、国家の重要任務を担ったのです。

初代「大和」の初代艦長は東郷平八郎中佐(当時)。写真はのちの「浪速」艦長時代に撮影されたもの。
当時はソナーのような音響測量機器などもなく、測量は陸地の定点を基準にし、陸地が見えないところでは位置が確定した点の海面にブイを浮かべて、三角測量を繰り返していきます。海の深さを測るのは、おもりを付けたロープを垂らし海底までの距離を測るという、地道な作業の繰り返しでした。
海軍力の整備は、ただ艦艇の数を増やせばよいというものではありません。艦隊が行動する海域の正確な情報が無ければ、艦は水深の浅い海域に入り込んで行動不能、最悪座礁ということにもなりかねません。潜水艦が海中を活動する時代に入ると、測量の重要性はさらに高まったことは言うまでもありません。
また測量を行うということは、地面に国旗を立てるのと同じで、権益を主張するという意味もあります。
ペリーの黒船も実施した「測量」の意味するもの江戸時代末期の1853年6月、神奈川県の浦賀へ、「黒船」ことアメリカのペリー艦隊が来航しました。彼らは武装した短艇を繰り出して、浦賀周辺だけでなく、護衛艦艇を付けて江戸湾にまで侵入して測量を実施しています。
これは測量という実務的な面だけでなく、権益を主張する外交的な威圧であり、さすがに当時の幕府も抗議しています。係争海域に測量艦を派遣するということは、一種の挑発行為であり戦争につながることさえあります。測量艦は海洋における、国家主権を主張するシンボル的な任務もあるのです。
測量艦「大和」は、日本沿岸や日本海で地道に活動を続けます。

1900年に撮影された帆装撤去後の「大和」。
測量艦「大和」は1935(昭和10)年4月1日に除籍となり、司法省に移管されて、浦賀港で係留されたまま少年刑務所として使用されました。その後、就役から半世紀が経過し老朽化が進むと、解体のため横浜の鶴見港に回航されますが、太平洋戦争が激化して放置され、そのまま終戦を迎えます。
やがて1945(昭和20)年9月18日の「枕崎台風」(昭和20年台風第16号)で浸水し、沈没。引き揚げ解体されたのは、さらに5年後の1950(昭和25)年のことでした。軍艦としては除籍されていましたが、2代目の戦艦「大和」よりも長く生き延びていたことになります。