第2次世界大戦後、アメリカ海軍は空母で運用する艦載機についてもジェット化を進めていましたが、もしかすると運用が難しくなる恐れを抱えていました。そこでバックアップとして考えられたのが、世界でも稀なジェット水上戦闘機です。

水上スキーを履いたジェット戦闘機

 水面を滑走路代わりに離着水できる「水上戦闘機」にも、ジェット化の試みがありました。

 第2次世界大戦後半に実用化されたジェット機は、1945(昭和20)年の戦争終結後、飛行機の主流になっていき、空母艦載機においてもジェットエンジンを搭載した新型機の開発が花盛りとなりました。

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海面を滑走するF2Y「シーダート」。写真は試作機なので非武装だが、量産型では20mm機関砲4門の搭載が予定されていた(画像:アメリカ海軍)。

 当時ジェット機は発展著しく、高性能を目指して大型化、大重量化が加速度的に進んでいました。そのため、第2次世界大戦中に設計、建造された従来型空母で飛行甲板の長さが足りなくなることは目に見えており、アメリカ海軍は空母の大型化とともに、ほかの解決策も模索する必要に迫られました。

 そうしたなか、プランのひとつとして1948(昭和23)年、超音速ジェット水上戦闘機の研究がスタートします。水面を滑走するのであれば、飛行甲板の制約を受けません。また陸上機ではないため、アメリカ空軍から横槍が入る恐れもありませんでした。

 同年10月、アメリカ海軍は国内の航空機メーカーに対し、超音速飛行も可能なジェット水上戦闘機の要求性能を提示し、開発提案を募りました。それに対してコンベアが応じ、1951(昭和26)年1月に「F2Y」の名称で、試作機2機の開発が正式に認められました。ちなみに愛称の「シーダート」は「Sea Dart」と綴り、seaは海、dartはいわゆるダーツの投げ矢、あるいは急激な動作や突進を意味します。

 コンベアのプランは斬新なもので、水平尾翼のない大型の三角形の主翼、いわゆるデルタ翼を取り入れた機体構造に、水上スキーのような引き込み式の降着装置を備えたものでした。

 1952(昭和27)年12月に試作1号機が完成すると、翌1953(昭和28)年1月14日には滑走テスト中に意図せず機体が浮き上がり、非公式ながら初飛行に成功します。公式には、エンジンを新型の出力向上型に換装して臨んだ、3か月後の4月9日に実施されたテストにおいて初飛行に成功となっています。

海面コンディションの影響は、飛行機として致命的

 初飛行から4か月後の1954(昭和29)年8月4日には、緩降下時の音速突破に成功したものの、開発時に想定していた、水平飛行で音速を越える最高速度マッハ1.5に到達することが、水上戦闘機としての構造上、難しいことが露呈しました。

水上戦闘機なのにジェットで音速突破 アメリカ海軍F2Y「シーダート」 その目的とは?

車輪を付けて陸上基地で翼を休めるF2Y「シーダート」(画像:アメリカ海軍)。

 また水上戦闘機である以上、波の状態で飛び立てるか否か、つまり、気象条件で運用を大きく制限されることが問題視され、超音速水上戦闘機の必要性に疑問符が付くまでになります。

 そのようななか1954(昭和29)年11月4日、試作1号機がデモフライト中に空中分解を起こして墜落、テストパイロットは死亡という事故が起きました。これにより計画の大幅な見直しが始まります。

 加えて同時期に、空母の構造に大きな影響を与える革新的発明が生まれました。それはスチーム(蒸気)カタパルトと、進行方向に対し斜めに設けられた着艦用のアングルドデッキです。それぞれの詳細は省きますが、これらの実用化によって、大柄なジェット艦載機であっても空母の発着艦が容易になりました。

 またアメリカ海軍が、満載排水量6万トンを超える空母の建造を決断したことで、超音速水上戦闘機の必要性がなくなった結果、F2Yの開発は1956(昭和31)年に中止となりました。

 ちなみにイギリスでも、太平洋戦争時の島しょ戦を戦訓にして、サンダース・ローSR.A/1ジェット戦闘飛行艇が開発されています。同機はF2Yよりもひと足早く1947(昭和22)年7月15日に初飛行していますが、やはり必要性に疑念が生じ、1951(昭和26)年に開発が中止されています。

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