全豪オープン会場の中心部であるロッドレーバーアリーナ内の一角に、カウンターを設けた二十畳ほどの広さの部屋がある。ここは、大会に出場する選手やそのコーチたちが必ず、一度は足を運ぶ場所だろう。
部屋の中には20台の巨大ミシンのようなマシンが並び、その前では「YONEX STRINGING TEAM」と背に書かれたポロシャツに身を包んだスタッフたちが慣れた手つきでラケットの”面”を張っていく。13カ国から集った総勢20名の「ストリンガー」と呼ばれる彼・彼女たちは、選手の活躍を陰で支える匠の者たちだ。
大坂なおみは10歳頃からヨネックスのラケットを使っている
全豪公式ストリンガーは、5年連続で日本のスポーツ用品メーカーのヨネックスが務めている。大坂なおみも愛用するヨネックスのラケットは、今大会のシングルス本戦・男女各128の出場選手中、男子19名、女子31名が使用しており、全体のシェア率で2位につけた。
もっとも、ストリンガーたちが対応するのは、すべての選手のあらゆるラケット。ラケットはメーカーやモデルにより、形状や材質なども異なる。
ましてや、グランドスラムともなれば、世界中から体格もプレースタイルも大きく異なる選手が集い、それぞれが独自のこだわりを持つ。それらに対応していくには、ある程度の時間と慣れも必要だ。
「自分たちが思っていた常識というのは、実はないんだな~と感じますね」
今年からストリンギングチームのリーダーとなった玉川裕康さんは、しみじみと自身の言葉を噛みしめた。
「日本でラケットを張る時は、個人差の幅の予測がつくんですが、ここでは幅を遥かに超えるリクエストがあります」
ストリングは一般的には、緩く張ると弾くようにボールを飛ばせるが、コントロールは難しくなる。逆に強く張れば制御はしやすいが、自力でボールを飛ばさなくてはならない。
その張りの強弱を調整するのがストリンギングマシンであり、ストリングを引っ張る強度(テンション)は、ポンド、もしくはキログラムで表示される。このテンションは、40~60ポンドあたりが玉川さんの言う「幅」。だが、今大会では「88ポンドで張ってくれ」という女子選手からのリクエストもあったという。
さらに今大会で、玉川さんが新たに担当するようになったのが、ラケットの「バランス」のカスタマイズだ。
選手たちは状況に応じ、フレームの先端部に重さを加えて、ヘッドスピードを上げたがる。逆にグリップ側の重量を増すことにより、スイングの安定感を求めることもある。
フレーム部に重さを加える際は、専用の鉛テープを用いるのが慣例。同じモデルのラケットでも、選手は微妙な個体差を感じるため、「以前に使っていたものと同じになるよう調整してほしい」と頼まれることもある。
「0.3グラム、ヘッドを軽くしてほしい」
そんなあまりに繊細な要望にも、応えていくのがプロの仕事だ。
10歳の頃からヨネックスのラケットを使う大坂なおみは、それほど多くのカスタマイズを求めるほうではないという。それは、制作段階から大坂のリクエストやフィードバックを得て、ラケットを作り上げていることが大きいだろう。
それでも、ストリンガールームの棚に並ぶ彼女の完成ラケットには、フレームの両サイドの内側に鉛テープが貼られており、バランス調整の跡がある。
なお、グリップに近いフレームの内側に刻まれているのは、彼女のニックネームである「NAO-CHI」の文字と、自由の女神およびカンガルーのシルエット。ニューヨーク開催の全米オープン、そして昨年の全豪オープン優勝を示す、彼女だけのオリジナルモデルだ。
ストリングのテンションは、53~56ポンドが大坂の「幅」。その幅のなかで、気候や湿度、ボールなどによって、数値は微妙に変わっていく。
愛称「NAO-CHI」の文字が刻まれた大坂なおみオリジナルモデル
ただ、ひとつの傾向として、昨年の全豪オープン時は縦糸より横糸のほうがテンションが低かったが、今大会ではそれが逆転しているという。今年から新コーチのウィム・フィセッテを招いたチームなおみ。
予選から含めて約3週間の大会期間中、ストリンギングチームは昨年、5,800本超えのラケットを張り、バランス等を調整してきた。今年も同量かそれ以上のラケットが、この部屋に持ち込まれては選手の手により、コートへと運びこまれていくことだろう。
数多の選手やコーチたちが足を運び、彼・彼女らの願いやこだわりが交錯するこのストリンガールームで、新たな物語の端緒が織り上げられていく。