関連記事 >>「1年後は桃田賢斗も安泰ではない。東京五輪の勢力図を占う」

PLAYBACK! オリンピック名勝負ーーー蘇る記憶 第36回

スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。

この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

◆ ◆ ◆

 日本の女子バドミントンはかつて、国別対抗戦ユーバー杯で1966年から81年まで6大会で優勝5回、2位1回と高い実力を見せつけていた。しかし80年代半ばの中国チームが台頭すると、低迷期が続いた。そうした状況で、2012年ロンドン五輪女子ダブルスの藤井瑞希・垣岩令佳組の銀メダルは念願の快挙だった。

「もう終わりかな」と思ったフジカキペアが銀メダルを獲得できた...の画像はこちら >>
 バドミントンが五輪の正式競技となった1992年バルセロナ五輪で松野修二・松浦進二組の男子ダブルスが、2000年シドニー五輪で女子シングルスの水井泰子が、共に5位入賞を果たした。だが、それ以外は結果を出せない時期が続いた。
特に04年アテネ五輪は、男女シングルス4名と男女ダブルス4組、混合ダブルス1組が出場したが、2回戦へ進んだのは女子シングルスの森かおりのみ。他はすべて初戦敗退。チームの全成績は1勝9敗という惨憺(さんさん)たる結果だった。

 このアテネの惨敗を機に日本バドミントン協会は、五輪や世界選手権で優勝し、「ダブルスの神様」とも称された韓国の朴柱奉(パク・ジュボン)氏をヘッドコーチに招へいし、強化に本腰を入れた。そこから、結果が出始めた。

 07年世界選手権の男女ダブルス銅メダル獲得を皮切りに、08年北京五輪は女子ダブルス4位と5位、男子ダブルス5位と3組が入賞。
世界国別対抗戦である男子のトマス杯と女子のユーバー杯では、10年と12年は共に3位。日本は、強豪国の仲間入りを果たしたのだ。

 そうした中、藤井と垣岩は、11年の世界選手権3位で同じルネサスに所属する先輩のペア末綱聡子・前田美順組を上回る日本勢最上位の世界ランキング4位でロンドン五輪に臨んだ。

 五輪の試合形式はそれまで、全選手によるトーナメント方式だった。だが、ロンドン大会からは、予選リーグを行なって決勝トーナメントに進出する形式が採用された。16組出場のダブルスは4グループに分かれ、各グループ上位2組が決勝トーナメントに進む。

初採用の形式で生じた各ペアの思惑の綾が、藤井と垣岩に味方することになった。

 B組の藤井・垣岩組は、3試合目の程文欣・簡毓瑾組(台湾)に敗れて2勝1敗となり勝敗では3組が並んだ。それでも藤井・垣岩は得失点差でインドをわずか1点上回り、2位で決勝トーナメント進出を果たした。

 だが、別の予選グループでは異変が起きていた。北京五輪優勝の於洋が王暁理と組んだ中国ペアは、五輪レース期間に出場したすべての大会でベスト4以上、ほとんどで優勝する世界ランキング1位の絶対的な優勝候補だった。予選リーグA組でも圧倒的な力を発揮し、2戦終了時点で韓国の鄭景銀・金ハナ組と共に決勝トーナメント進出を決めていた。


 両者の対決となった最終戦で於・王組は、準決勝で同じ中国の田卿・趙蕓蕾組との対戦を避けるため2位通過としようと、サーブをわざとネットにかけるようなプレーをした。一方、韓国の鄭・金組にも決勝トーナメントの組み合わせを考え、故意に負けようとするプレーが見られた。結果は、0対2で中国が敗れたが、試合後に「無気力試合」と判定され、両組共に失格となった。

 C組でも、すでに2勝していた世界ランキング3位の河貞恩・金ミン貞組(韓国)と、ポーリー・ジャウハリ組(インドネシア)の試合も「無気力試合」と判定されて、両者失格となった。

 そうした波乱の中での決勝トーナメントだった。

 藤井と垣岩の初戦の相手は、デンマークのクリスティナ・ペダルセンとカミラ・リターユール組だった。

世界ランキング5位だが、4月のマレーシアオープンでは優勝。ペダルセンは混合ダブルスで09年世界選手権3位のほか、スーパーシリーズでも優勝していた。本大会でも、予選リーグで中国の田・趙組を破って、D組を1位通過した。

 第1セットは、藤井・垣岩組が先手を取ってリードする展開だったが、相手も粘り、20対20までもつれ込んだ。しかし、そこから垣岩が2連続得点をしてこのセットを取ると、勢いに乗った第2セットは、中盤に垣岩の5連続得点と藤井の7連続得点で突き放して21対10と圧勝した。

「予選リーグで台湾に敗れた時には『もう終わりかな』と(垣岩と)話していました。
でも、チャンスがもう一回できたので、勝ち負けよりも、思い切り楽しもうという気持ちでした」

 藤井がそう振り返るように、開き直った姿勢が勝ちにつながった。

 ところが、勝てばメダル獲得が確定する準決勝のカナダ戦は一転して苦しんだ。カナダは、予選3戦全敗ながら、中国と韓国の失格で繰り上がってきた世界ランキング28位のペア。日本にとって、試合前から「勝って当然」というプレッシャーがあった。

 日本の2人は、第1セットは21対12で取ったが、第2セットは緊張でリズムを作れず、19対21で奪われた。藤井は「試合中は久しぶりに『やばい、どうしよう。逃げたい、逃げたい』と思って、口にも出していました。でも(垣岩が)『大丈夫、大丈夫』と言ってくれたので、何とか踏みとどまれました」と話す。

 垣岩も「いつもは緊張しない先輩が『逃げ出したい』とか、『もう嫌だ』とか言っていたので、やっぱりそういう時は笑顔でやらないとダメかなと思って、積極的に声をかけて試合に関係ない話もしていました」と笑いながら振り返る。

 そういったやりとりを経て踏ん張り、ファイナルセットは中盤でリードを奪って、21対13で勝利。決勝進出を決め、銀メダル以上が確定した。決勝の相手は世界ランキング2位の田・趙組。予選ではデンマークペアに敗れて2位通過だったが、決勝トーナメントでは格下の相手を圧倒して勝ち上がっていた。

 藤井と垣岩は第1セット、準々決勝で勝った験(げん)を担いであえて苦手な追い風のコートを選んだが、緊張もあってか10対21であっさりと取られた。垣岩は「1セット目は先輩に『楽しんで。笑ってよ』と何度も言われたけれど、緊張したままで......。まずは相手のコートに入れることを考えましたが、それもできないまま終わっちゃいました。それでも2セット目はレシーブから攻撃にいけるようになったので、自然と笑顔が出てきました」と述べる。

 その第2セットは、先手を取られたものの、中盤には5連続ポイントで逆転。その後、リードを維持しながら大接戦を演じ、最後は観客の声援を引き寄せる粘りの戦いを繰り広げた。結局、23対25でセットを奪われ、ストレート負けとなったが、2人にとって戦い切ったと言える試合だった。

「日本で初めてのメダルという前に、私たちが決勝まで進めたことに最後まで実感が湧きませんでした。でも、表彰式でメダルをかけてもらった時に、その重さにビックリして『やっぱり本当なんだ』と感じられました。今回はいろいろ問題もあってラッキーだったというか......。私たちだからできたというよりは、応援してくれたたくさんの人たちのおかげですし、いろんなことが重なって結果だと思います」

関連記事>>「なぜ日本バド女子は強いのか」

 藤井はこう話すが、このメダルは決勝トーナメントの3試合で、力を振り絞って戦った結果でもある。

 藤井は、中学入学後に結果を出し始め、「中学生離れしたプレーをする」と対戦相手を驚かせた。自分をクレバーに分析しながらも、挑戦を楽しむ意識の高い選手だった。出身の熊本から強豪校の青森山田高に進むと、1年生からレギュラーになり、3年のインターハイでは25年ぶりのシングルスとダブルス、団体の3冠獲得を果たした。

 高校卒業後はNEC九州(後のルネサス)に入り、1年目の07年からナショナルチームに加わった。シングルスでなかなか勝てないでいた時、6月の男女混合国別対抗スディルマン杯で、2部優勝を決めたオグシオ(小椋久美子・潮田玲子組)の感動的な勝利を見てダブルスで世界を目指そうと決めた。

 声をかけたのが、高校の1年後輩の垣岩だった。電話で「一緒に五輪を目指したい」と伝えた。それを受け、進路を迷っていた垣岩は、藤井と同じNEC九州に入ることを決めた。

 垣岩は高校時代をこう振り返る。

「私が1年生だった時のインターハイ東北大会の団体決勝で、いきなり藤井先輩とペアを組まされたことがありました。最初は『えっ、組むの?』と戸惑いましたが、試合後に『すごいシックリきた』と言ってもらいました。プレーでは先輩から吸収させてもらうことが多いですが、普段の生活は、先輩がボケで私がツッコミのような感じもあるので、プレーもそんな感じの方がいいかなと思うようになりました」

 08年には、北京五輪の会場でチームの先輩である末綱・前田組を応援し、「五輪に出たい」との気持ちを明確にすることができたのも、藤井と垣岩にとって急成長の要因となったようだ。

 多くの選手たちにとって最大の目標である五輪のメダル。チャンスを確実にものにした藤井・垣岩組のこの結果は、世界選手権や国別対抗戦で上位に入るようになっていた日本チームに、大きな勢いと自信をつけさせるものになった。

 ロンドン五輪銀メダル獲得までの道のりを、藤井と垣岩は若さの勢いのまま、爽やかに駆け抜けた。