つかみどころのない青年──今秋のドラフトでオリックスから1位指名を受けた東北福祉大の椋木蓮(むくのき・れん)と対面した率直な印象だ。

 取材の際、ある質問に熱っぽく答えてきたかと思ったら、意に沿わないものに関しては「はい」とだけ力なく返答し、スッとかわしていく。

飄々と相手打者を抑えていくマウンドさばき同様、多少のことではぶれない芯の強さと言うべきか、椋木は独特の間を持っている。

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オリックスからドラフト1位指名を受けた東北福祉大の椋木蓮

 そんな椋木について、今でも強く記憶に残っているシーンがある。昨年10月31日に行なわれた東北地区大学王座決戦の準決勝(対八戸学院大)でのことだ。2対1と1点リードで迎えた8回裏、一死満塁の場面でマウンドに上がった椋木は、併殺崩れで同点にされたが、打者2人をわずか5球で仕留めて、ベンチへと帰っていった。

 9回裏も、1番から始まる相手の上位打線を10球で三者凡退。タイブレークで迎えた10回裏も3人を11球で抑えこんだ。

椋木が言う。

「圧倒的な形でアウトを取って、ベンチに戻るということをいつも考えています。絶対にランナーを出さない、3人で抑えるという気持ちでマウンドに上がっています」

 絶体絶命のピンチでも、いい意味での割り切りができる。たとえば、前述のタイブレークの場面についてはこう考えていたという。

「自分で出したランナーではないですし、『嫌だな』という気持ちにはあまりならないです。東北王座決定戦の時も『同点までならいい』というくらいの気持ちで投げていました。

もちろん、0点で抑えたい気持ちはありますけど、変に縛られたくないというか、できるだけラクな気持ちでマウンドには上がりたいので......」

 東北福祉大で投手陣を指導する諏佐航平(すさ・こうへい)コーチは、椋木についてこのように話す。

「体以上の存在感といいますか、堂々としているのは最近とくに感じます。実際に体が大きくなったのはありますが、マウンドではそれ以上に大きく見える時があります。『椋木がマウンドに上がったら大丈夫だ』と周りの人間に思わせることができていますし、『あいつが投げているんだから点をとってやろう』と応援される人間にもなりました。そういう部分での成長も大きかったんじゃないでしょうか」

 今でこそ大人びた性格になった椋木だが、下級生時は幼い一面があったという。諏佐コーチが続ける。

「一緒に投手を指導している上岡(良一)さんと私に怒られることが結構あったんですけど、それも野球に関することではなくて、人格的な部分で。たとえば、ベンチにいて仲間を応援できないとか。それも自分がいいピッチングをできない時だったりしたので......。そうした姿は周りの選手も見ていました。それが今年になって変わって、リーグ戦でも自分が投げていない時に野手よりも大きな声を出して応援するようになった。あのあたりの精神的な成長が、飛躍した一番の理由だと思います」

 椋木は山口県の高川学園の出身で、中学・高校で先輩だった山野太一(現・ヤクルト)の背中を追って、遠く仙台の地までやって来た。

椋木は言う。

「高校時代も全然目立つような選手じゃなかったし、(山野)太一さんについていく形で東北福祉大に入りました。当時は1年から試合に出られるとは思っていなかったですし、逆に緊張やプレッシャーもなく、ただ楽しんでやっている感じでした」

 東北福祉大で指揮を執る大塚光二監督は、入学時の椋木についてこう語る。

「体の線が細く、それほど大きくもないので、強い印象はなかったです。球速も140キロちょっとだったかな? ただ練習会に来た時に『投げっぷりのいいピッチャーだな』と思いましたね。変なクセもなく『スピンの効いたいいボール投げるな』と。

でも当時は、山野や津森(宥紀/現・ソフトバンク)もいましたし、藤川昂蓮(現・日本新薬)という右の本格派もいた。この投手陣のなかで、はたしてどれだけできるのかなという期待と不安の両方がありました」

 そんな指揮官の印象を覆すように、椋木はメキメキと頭角を現していく。大塚監督が続ける。

「練習会の時点では、(高校時代に実績があった)綱脇慧(花咲徳栄出身)や小松章浩(おかやま山陽出身)のほうが評価は高かったんです。それが2月に仙台に来た時、椋木を見たら体が大きくなっていて、本人に聞くと『体重が3キロ増えて、球速も144キロ出ました』と。そこで3月のキャンプに参加させると、ブルペンでもいい球を投げた。

『これなら1年春からいけるんじゃないか』となって、リーグ戦で使ってみたんです」

 1年春のリーグ戦で、椋木は9試合に投げて防御率0.00という結果を残した。1年秋も6試合に登板して防御率0.92。しかし、突然のアクシデントが襲う。2年春のリーグ戦途中に右肩関節窩の炎症を起こして戦線離脱。そこから長期のリハビリ生活を余儀なくされた。

 ケガは思っていた以上に重症で、一時は5メートルほどしか投げることができず、私生活にも支障をきたすほどだった。

「右肩をケガした時に(治療など)いろんなところに行って、たどり着いたのがバランス系のメニューを多めにすることだったんです。体幹とか肩甲骨がうまく使えるようなストレッチを重点的に......それから継続して、今もやっています」

 空いた時間はインターネットで、プロの投手の、とくに自主トレの動画を徹底的に見た。そのなかで目を奪われたのが、オリックス・山本由伸の動画だった。ブリッジの体勢を保ちながら、四肢をひとつずつ動かし、ぐるりと1周するというエクササイズだ。

「自分も体の使い方を意識して投げているので、そこがうまくかみ合ったら(球速が)速くなると感じています。そこをどう考えているのか聞いてみたいです」

 幼少の頃に通っていた水泳の効果もあって、体の柔軟性には自信があった。指先も器用で、調子が悪くてもある程度の球速は出ていたという。しかし体を脱力して、リリースの瞬間だけ指先に力を入れられた時の感覚はまるで違うと、椋木は言う。縁あってオリックスに入団し、山本由伸という最高の手本が身近にいるのなら、そのスキルを学び、吸収したいと考えるのは当然のことだ。

「(学びたいことは)ホント全部です。真っすぐ、変化球はもちろんですけど、投球フォームのバランスとかもですね。自分はバランスが悪くて、ケガをした。そこを治してから段々とよくなってきたので、そこを学びたいのもありますし、1回から9回まで投げてフォームが崩れないところもすごいですし、なぜそれができるのか聞きたいです」

 東北大学病院でリハビリテーション部に属している理学療法士の村木孝行先生からも教えを受け、3年の秋以降、椋木のパフォーマンスは格段に上がっていった。

 また、リハビリ中に東北福祉大・村瀬公三助監督の指導のもと取り組んだ亀岡八幡宮でのトレーニング効果もあり、ストレートの最速は154キロまで達した。本人曰く、まだまだ球速は上がりそうな感覚があるという。

「ケガをした時、ずっと面倒を見てくれたのが村瀬さんでした。亀岡八幡宮の(仙台で最も長いという)石段に連れて行ってもらい、そこでトレーニングにつき合ってくれて......ホント恩人です」

 4年秋のリーグ戦では9試合(29イニング)に登板して、自責点はわずか1。しかも38個の三振を奪うなど、奪三振率は11.79を記録した。

 椋木はプロ入り後の自身の将来像についてこう話す。

「自分の名前を聞いたら、誰もが知っているような知名度のある選手。さらに、日本代表に選ばれるような選手になっていきたいと思っています」

 オリックスには前出の山本由伸をはじめ、宮城大弥や山岡泰輔、山﨑颯一郎といったイキのいい若手投手が揃っている。互いに切磋琢磨することで、相乗効果が生まれるはずだ。オリックスにまたひとり頼もしい若手が加わった。