山田かな インタビュー前編
「真面目なバレーボール部員時代」

脱サラ&名門理系大学現役JDグラビアアイドルという肩書きを引っ提げて、2021年に25歳でデビューした、山田かなさん。現在、雑誌のグラビアなどに多数登場し人気急上昇中な彼女は中学時代、バレーボール部に所属し、キャプテンを務めていたとのこと。

バレーボールについて、そして部活で酸いも甘いも思い知らされたという青春時代の思い出を聞いた。

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大学に通いながらグラビアタレントとして活躍する山田かなさん

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デビュー後初めての"脱がない"撮影

ーースポルティーバに初登場の山田かなさん。本日、インタビュー前に行なったバレーボールの練習着での撮影はいかがでしたか?

山田かな(以下、同) バレーボール部に所属していた中学生の時以来12年ぶりにバレーボールを触ったんですけど、めちゃくちゃ楽しかったです。というか、デビュー以来、水着を着ない撮影は初めてでした!(笑)

ーーでは、バレーボール部時代の話を伺います。入部したきっかけは?

 小学校の時にミニバス(ミニバスケットボール)を少しの間だけやっていたので中学でもバスケ部に入りたいと思ってたんですけど、バスケ部の女の子たちはみんな身長が高くてハイレベルだったから、背の低い私(現在156センチ)じゃ無理だなと。

 でも何かしら球技をやりたくて。バレー部の子たちは私と身長があんまり変わらなかったし、日焼けを避けようと室内競技のバレーを選びました(笑)。

そんな動機だから当初はルールもよくわからなかったし、アンダーハンドでボールを受けるとすごく痛い。最初は内出血しまくりでした。

ーー運動神経に自信はありましたか?

 悪くはなかったです! 当時、体重が60キロくらいあって、今よりだいぶ丸かったんですけど、中学時代の体力測定は3年間、学校で総合1位でした。

ーー1年生の時から3年生に勝っていた?

 そうですね。スポーツだけは得意でした! 特に握力、ハンドボール投げ、長座体前屈が強くて、あとは瞬発力があったので50メートル走もけっこう速かったですよ。

「脱サラJDグラドル」山田かなの壮絶なバレー部時代。崩壊寸前で「泣きながら練習に」
「脱サラJDグラドル」山田かなの壮絶なバレー部時代。崩壊寸前で「泣きながら練習に」

唯一の真面目な部員? 中学バレー部は「大変な環境」

ーーバレー部でのポジションは?

 まあまあパワーがあったので、1年生の時からピンチサーバーで公式戦に出させてもらってました。ポジションは最初の頃はライト。

でも気づいたら身長が一番低くなっていて、中2に上がる頃にはセッターになってました。跳躍力はあったから、セッターだけどブロックを決めることが多かったです。

ーー部長だったそうですね。

 私の学年は部員が6人しかいなかったんです。しかも、私以外、金髪にしたり舌ピアスを開けてくるようなヤンチャな子たち。部活、というか学校すらあんまり来てなくて、ちゃんと部活に出てるのが私だけでした(笑)。


 キャプテンとしてまとめなきゃいけないんですけど、怖いから関わりを避けるじゃないですか。その子たちが学校帰りにゲームセンターに行ってたのがバレた時に、行ってない私まですごく怒られて......。それがバレー部時代の一番の思い出です(笑)。

「脱サラJDグラドル」山田かなの壮絶なバレー部時代。崩壊寸前で「泣きながら練習に」
ーー周囲の子たちは練習に来ないけど退部はしなかったんですね(笑)。

 ホントですよ! そんな状態で先生が顧問を降りてしまって、そのあとに入った専門コーチも私に「君だけは真面目にやっていていい子だ!」と言いながら、また去っていきました(笑)。それからはバレー未経験の新任の女性教師と一緒に練習メニューを考えたりしてました。


ーー真面目! その環境で3年間続ける根性がすごいです。

 バレーをやっていて唯一よかったことは、そんな大変な環境を乗り越えられた経験ができたことですね。泣きながら部活へ行ったこともありましたし。でも上級生と下級生がすごくよくしてくれたので救われました。それにバレー自体は好きでしたから。

ーーメンタルが鍛えられた。


 いえ、メンタルは超弱いです。今でも定期的にずーんって落ちることがあります。でもしばらくしたら自己完結して戻ってきます! 本当にメンタルが強い人はそもそも落ち込みませんからね。

「脱サラJDグラドル」山田かなの壮絶なバレー部時代。崩壊寸前で「泣きながら練習に」

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家が貧乏でシューズを買い替えられなくて...

ーーそうして中学のバレー部をやりきったわけですが、高校では続けようとは思わなかったんですか?

 高校ではレベルも高くなるだろうし、ついていけないだろうと思って諦めました。他の部活をしようにも、家が貧乏だったので学費をアルバイトで稼がないといけなかったんですよ。ラーメン屋とファーストフード、コンビニの3つのバイトを掛け持ちしてました。中学時代も、バレーシューズを買い替えられなくてボロボロな状態でずっと履いてました(笑)。



ーーヤンチャな部員に囲まれて、たったひとり、ボロボロのシューズで頑張っている部長......。健気で何だかドラマになりそうな話ですね。

 それでチームが強くなればよかったんですけど、たしか最後の夏も地方大会2回戦負けだったかな。同級生のチームメイトも一応最後の試合は来ましたが、終わったら「おつかれー」みたいな感じですぐに帰っちゃって。『ROOKIES』みたいな展開には全然ならなかったですね(笑)。

会社員時代、営業成績トップのテクニックとは?

ーー「キセキ」は起こらなかったと(笑)。高校卒業後、スポーツ用品の営業の仕事について、1年目から売上トップを記録したそうですね。

 実はその前に派遣でアパレルの仕事をやっていたんです。その時に母が大病を患って、私はフリーターみたいな立ち位置だったので、姉から「あんたが正社員になって、ちゃんとした姿を見せないとお母さんも死ぬに死ねないよ。それでもいいの?」と言われて。まあ結果、母は今では毎日犬の散歩に行けるほどすっかり元気になったから笑い話ですけど。それがきっかけでスポーツ用品の会社に就職して、営業をすることになったんです。

ーー山田さんなりの営業テクニックはあるんですか?

 営業成績のいい人のそばについて、直接聞くのではなく、その人がやっていることをメモ帳に書き出してました。トークも、お客さんに過度にへりくだりすぎず、話の流れのなかで契約にこぎつける話術を参考にしてましたね。

 たとえば、ゴルフコースにボールをいくつ卸すかという交渉だとしたら、相手がうちの商品を誉めてくれたタイミングで、「じゃあロットは何個からなんで、いくつ買いますか?」みたいな。すごく押してるわけではなく、自然と買ってもらう流れを作っているのを見て、「おお、すごいな」と思い、マネしてました。

ーー何にでも一生懸命。

 一生懸命やっている感覚はないんです。多分、何事も好きになれるタイプなんでしょうか。モットーとしては「無理をしない」。無理をしたら続きませんから。

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 バレーボールに情熱を注いだ日々は決して無駄ではなかった? 山田かなさんのインタビュー後編では、彼女の脱サラからの名門大学受験物語や芸能活動のこれまでと今後、知られざるマッチョ愛について話を聞きます!

インタビュー後編『偏差値28から名門大学合格のグラドル・山田かな。マッチョを見て「モチベーションを高めてます」』>>

【プロフィール】
山田かな Yamada Kana 
1995年、千葉県生まれ。グラビアタレント、俳優。高校卒業後、会社員生活を経て、2019年に名門理系大学に入学。2021年にデビュー。

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田名部敦士●スタイリング styling by Tanabe Atsushi