2022年はサッカーW杯など様々な競技で盛り上がったスポーツ界。スポルティーバではどんな記事が多くの方に読まれたのか。

今年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2022年3月14日配信)。※記事は配信日時当時の内容になります。

   ※   ※   ※   ※   ※

「ナオミ! You Suck!」

 観客のひとりがこの言葉を叫んだ時、周囲の客席からは「オー?」っと発言者をとがめる声があがった。

 カルフォルニア州インディアンウェルズ開催のBNPパリバ・オープン2回戦。大坂なおみがベロニカ・クデルメトバ(ロシア)相手に最初のサービスゲームを落とした、その直後の出来事だ。

大坂なおみに飛んだ「ヤジ」を考える。彼女が流した涙は「メンタ...の画像はこちら >>

大坂なおみが涙を流した時、観客の反応は...

 この「ヤジ」を耳にした大坂は、主審に歩み寄り、何かを訴えはじめた。
テレビ中継用のマイクが拾ったのは、「そのマイクを使わせて。悪口を言い返すのではない、伝えたいことがあるだけ」という彼女の声である。

 主審が「スーパーバイザー(大会進行の責任者)の確認を取らなくてはいけないから」と返答したため、大坂はプレーを再開する。

 ただ......スタジアム内の巨大スクリーンに映し出された彼女の顔は、涙に塗れていた。

 その様子を見た客席からは、大坂への激励が次々に飛ぶ。だが、ファンの温かな声も、彼女が負った心の傷を癒すにはいたらない。

 第1セットは、広角に打ち分けられる相手の強打についていけず、1ゲームも取れずに失った。

 第2セットは少し持ち直すも、相手の好プレーを崩すには至らない。わずか1時間18分、0-6、4-6の敗戦だった。

 大坂に向けられた「You Suck」の意味合いを、どう捉らえるかは難しい。

「最低」と訳されることも多いが、スポーツの「ヤジ」としては、ある種定番の言い回しだ。その場合は、「へたくそ」程度のニュアンスかもしれない。

 ただ、同じ言葉でも、受け止め方はそれぞれだ。

 この大会の取材にあたっているベトナム系アメリカ人の女性記者は、次のような例を引き合いに出し、そのことを説明した。

「パンデミック以降のアジア人ヘイトの機運が高まっていた時、街中で悪口を浴びさせられたら、それが人種差別的な内容でなくても、『私がアジア人だから?』と思ってしまう」

 つまりは同じ言葉でも、どう響くかは状況や環境によっても変わってくる。

【忌まわしき2001年の暗い記憶】

 そして、不運にも大坂にとって、この大会のセンターコートで浴びせかけられる「ヤジ」は、ある特定の記憶を呼び起こす"トリガー"だった。

 そのことを観客やテレビを視聴している人々が知ったのは、彼女が試合直後にマイクを使い、オンコートで話す機会を得たときだろう。

「ヤジにこれだけ打ちのめされたのは、ビーナスとセリーナが、ここでヤジられた動画を見たことがあるから。もし見たことがなかったら、見てほしい。

この時の様子が、私の頭の中で繰り返し再生されたの」

 大坂が涙ながらに訴えた「ビーナスとセリーナへのヤジ」とは、この地に染み込む暗い記憶だ。

 話は、2001年までさかのぼる。

 この年の同大会の準決勝は、当時圧倒的な支配力を誇ったビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹の対戦になるはずだった。ところが試合直前に、姉のビーナスが棄権を表明。期待のカードが幻と化したことに腹を立てたファンは、翌日、決勝戦のコートに立つセリーナに執拗なブーイングを浴びせ続けたのだ。

 この観客の蛮行に対し、姉妹の父リチャードは「人種差別だ」と激昂。

その後14年間にわたり、ウィリアムズ一家はこのインディアンウェルズの会場に足を踏み入れることがなかった。

 実はこの事件こそが、セリーナを敬愛してやまぬ大坂が、憧れたきっかけでもある。

「あの試合の動画を見て、ブーイングを浴びながらも勝ったセリーナの姿に、ものすごく感動した。私もジュニアの試合で、対戦相手の友人や家族から心ない言葉を浴びせかけられ、自分のプレーが全然できずに負けたことがあるの。だからこそセリーナの姿が、私には大きな励みになった」

 そのように大坂が話してくれたのは、彼女がまだ16歳の時のこと。

 観客の敵意を跳ねのけ戦うセリーナの雄姿に、幼い大坂は自分を重ねていた。

だが、同じコートで自身に悪意が向けられた時、大坂の頭に蘇ったのは、試合後に父の胸に顔をうずめ泣きじゃくるセリーナだったのだろう。

【観客は温かい拍手で応えた】

 セリーナの涙から21年たった今、彼女の後継者と目される大坂が、同じコートで涙にくれた。

 悲しい歴史は、繰り返されたように見える。ただ、ふたつの光景は、似ているがゆえに重なった時、明らかな相違点を浮き彫りにもする。

 大坂がコートを去る時、オンコートの司会者は「ここにいる1万人の観客のなかのひとりの声は、残りの9999人によってかき消されるよ!」とエールを贈った。

 その言葉が真実であることは、大坂に向けられた歓声と、ぬくもりのこもる拍手が証明していた。

 ファンに向け、「ありがとう」と幾度も繰り返す大坂が流した涙──。それは必ずしも、悲しみの涙だけではなかったはずだ。