フットサル日本代表 金山友紀引退インタビュー 後編

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45歳で引退を決めた元フットサル日本代表の金山友紀をインタビュー。後編では野球少年からサッカー転向、そしてフットサルを始めたきっかけから、恩師・木村和司氏との関係など、ここまでの稀有な選手キャリアを語ってもらった。

野球少年がサッカーに転向し恩師との出会いでフットサル日本代表...の画像はこちら >>

今季ホーム最終戦で行なわれた金山友紀の引退セレモニーに、恩師・木村和司氏が駆けつけた

【中学までは野球で有名な存在】

 日本にはフットサルの全国リーグであるFリーグがある。だが、選手たちが競技に専念できるプロクラブは名古屋オーシャンズひとつだけ。

 45歳までフットサル選手として第一線で活躍してきた金山友紀もプロの選手ではない。では、どのように選手のキャリアを続けてきたのだろうか。

 もともと金山は、野球少年だった。

 父が少年野球チームの監督をやっていて、4つ上の兄も野球をしていた。そんな野球一家に生まれた金山は、小柄だが強肩、俊足のキャッチャーとして、地元では有名な存在になっていく。

 金山の通った中学校にはサッカー部がなく、野球を続けていたが、彼が育った島根県浜田市では2カ月に一度ほど、市内のサッカー部以外の子どもたちが集まるサッカーのトレセンのような場所があった。そこにも参加していた金山は、1993年のJリーグ開幕によって訪れた一大サッカーブームに反応。プロ野球選手も輩出しており、甲子園出場も狙える野球の名門である浜田高校の「野球部員は坊主にする」というしきたりにも、抵抗があったのだという。

 そこで浜田高校に入学する前の3月に仮入部の形でサッカー部の活動に参加し、自分が通用するかどうかをテストした。

「最終的には入学してから、野球をするか、サッカーをするかを決めようと思っていました。野球は絶対に通用する自信があったので、サッカー部の練習に参加させてもらっていたんです。

それと当時、野球部の監督は同じ学年の他の生徒に『野球部に入らないか』と声をかけていたんです。でも、オレには声がかからなくて『なんでだ』と思っていました。その反発心もあったと思います」

【突然フットサル日本代表に】

 野球部であれば、1年時からレギュラーを狙えた金山だが、サッカー部に入部したことでボール拾いからスタートすることとなった。

「右利きの選手には、パスを右足に出すとか。左利きの選手には左足に出すとか、そういうのを学んだのは高校の時です。中学校で3年間サッカーをしてきた生徒たちとは、当然、差がありました」

 3年生が引退して、新人戦からレギュラーになった金山は、高校3年時には島根県の国体選抜にも選ばれる。この実績を生かして2つの大学の推薦テストを受けたが合格せず。

受験もうまくいかなかった金山は、浪人するか、ブラジルにサッカー留学に行くかという二択で悩んでいた。両親と相談するなかで、元鹿島アントラーズのジーコ氏もかかわっていたサッカーの専門学校であるルネス学園金沢に進学することを決めた。

 1学年100人の大所帯だったが、金山は最初のセレクションからトップチームに抜擢される。推薦入学以外でトップチームに入ったのは、この学年で金山だけだったという。

 ジーコ氏は、サッカー選手の育成にフットサルが効果的であると語っているが、ルネス学園もサッカーだけでなく、フットサルの大会にも出場していた。

 金山はルネス学園を2年で卒業すると、愛知県で社会人として働きながら社会人チームに加入して2度、国体にも出場した。

この時に並行して、同級生を中心にBorn77というフットサルチームを立ち上げて、フットサルもプレーしていた。

 このBorn77で全日本フットサル選手権を含む3度の全国大会に出場して、カスカヴェウ(現ペスカドーラ町田)と対戦したことで金山はフットサルにのめりこんでいく。

 全日本選手権終了後には、カスカヴェウへ移籍。全日本選手権での活躍が話題になっていたこともあり、加入直後には東京都選抜にも選ばれる。東京都選抜は、当時、横浜マリノスでも活躍した元サッカー日本代表MF木村和司氏が監督を務めていたフットサル日本代表と練習試合を行った。

 この試合で木村監督の目に留まった金山は、そのままフットサル日本代表にも選ばれて、イランで開催された2001年のAFCフットサル選手権(現フットサルアジアカップ)にも出場することとなる。

当時もわずかながら日当があったが、フットサル選手からすれば、「フットサルをしてお金がもらえる」というありがたい状況だった。

【現在もサッカースクールで働く】

 この時、金山は働いていた時の貯金を切り崩して生活をしていた。そこでイラン遠征の際に、木村監督に将来の相談をした。すると木村監督は、自身が代表を務める有限会社シュートで金山をアルバイトで採用し、サッカースクールのコーチを任せることにした。この時から現在も、金山はこの会社に籍を置いている。もちろん、今はバイトではなく、社員としてだ。

「当時は本当にお金がなかったから、しょっちゅう和司さんの家に行って、ご飯も食べさせてもらっていました。

『五合も炊いているのに、ほぼなくなる』ってビックリされていましたね。誰かと行っていた? いや、僕一人です」

 この時、金山は食事をさせてもらうだけでなく、木村氏から日本リーグがJリーグになる過程の貴重な話も聞かせてもらっていたという。

「アマチュア選手がプロになっていく過程とか、プロとは何かとか、そういう話をしょっちゅう聞かせてもらっていました。よく『プレーでどれだけ楽しませられるのか』『どれだけお客を呼べるのか』みたいな話をしてもらっていました」

 Jリーグブームで野球からサッカーに転向した金山だったが、この当時はまさにフットサルブーム。2002年の日韓W杯の影響もあり、日本中にフットサルコートができていった時期だった。また、当時はスーパーリーグという民間リーグがテレビ中継されるなど、屋内スポーツとしても注目されていた。

「フットサルのプロリーグを作りたい、見てもらいたい、もっと知ってもらいたいという一心でしたね。だから、見に来てくれる人たちに面白い試合を見せること、どういう振る舞いをするべきかとか、そういうことも意識していました。あとはプロリーグや全国リーグを作る過程を経験できるのは、その時の一部の人だけ。この時間を過ごした人は、貴重な人だって言われましたね」

 カスカヴェウの練習を、後に川崎フロンターレで監督を務めることになる高畠勉氏が見学に来たことがあった。この時に「プロサッカーチームより追求して練習してて、よりプロフェッショナルだ」と言われたのが、強く印象に残っているという。それくらいプロ意識の高いチームだった。

【Jリーガー転身のチャンスも】

 2007年からはFリーグが開幕。三浦知良がフットサル日本代表に参戦した時には、代々木第一体育館に8,236人が集まった。

 だが、現在のFリーグにその当時の勢いはない。2022-23シーズンのプレーオフ決勝は3試合合計で2,312人、1試合平均770人という入りだった。

 クラブから収入がある年もあったが、クラブの経営状況によってそれは変わる。昨年、メインスポンサーが離れた町田は、今シーズンは選手に金銭的な補助はできなかったという。

 金山には、一度だけ本気でフットサルを離れようとしたことがあった。それは木村氏が横浜F・マリノスの監督に就任した年だった。木村監督にJリーガー転身を薦められていたのだ。

「和司さんは、本気の戦力として考えてくれていました。『残り15分とかにお前が出て、パスが出たら面白いだろう』って。当時は足首にケガもしていて、痛み止めの注射を打ってプレーしているような状態だったんです。フットサルは経験値でなんとかなる自負があったけど、サッカーはどうだろうって。めっちゃ悩んだけど、フットサルを続けることにしました」

 再びフットサル人気が高まることを、金山は強く願っている。

「僕がフットサルを始めた時は、『フットサル』って言っても『なんの猿?』って聞かれるような時代でした。でも、今は『フットサル』の五文字を見たら、競技の名前を指しているってほとんどの人がわかると思います。あとは、その文字がどれだけ輝いて見えるか。新聞とか、雑誌を見て『フットサル』っていう文字が目に入った時に、輝いているように見えることがすごく大事だと思うんです」

 今季限りで現役を引退する金山だが、この先もスクールコーチとして、そして指導者として後進の育成に励んでいく。フットサルの五文字が、再び輝く日を夢見て。

金山友紀 
かなやま・ゆうき/1977年9月2日生まれ。島根県浜田市出身。社会人チームでのサッカー活動から2000年にカスカヴェウ(現Fリーグ・ペスカドーラ町田)に加入。2007年のFリーグ発足以降もチームの中心としてプレーしてきた。フットサル日本代表では2004年と2008年のフットサルワールドカップに出場している。