12月1日、広島。北海道コンサドーレ札幌を率いるミハイロ・ペトロヴィッチ監督は、試合後の記者会見で喋り続けていた。
「(札幌の)監督の仕事を7年間やってきて、『札幌らしい』と言われるサッカーを見せられるようになりました。代名詞と言われるようなサッカーを」
ミシャという愛称で呼ばれるペトロヴィッチ監督は、そう言って壇上で胸を張った。
「6シーズンは残留してきて、今シーズンは果たすことできませんでした。難しいシーズンになりましたが、多くの人にサポートされるなか、監督である私だけが期待に応えることができなかったと思います。降格の責任は、すべて私にあるもので......来シーズン、私はいませんが、クラブは毎年の積み重ねで成長できているので、再びJ1に昇格できるはずです」
ミシャはそう言って、札幌の監督としての幕を引いた。名将ミシャが残した札幌らしさとは?
12月8日のJ1最終節、札幌は本拠地に柏レイソルを迎えている。ミシャにとっては札幌でのラストマッチ。1-0と快勝を収めた。ミシャ札幌らしさ全開だった。
前半5分の中盤での攻防。
1対1での強度、トランジションの速さと精度、相手を幻惑、撹乱するランニング。それらをミックスし、見事なコンビネーションゴールを決めた。これぞ、ミシャ札幌だった。何度も、何度も、トレーニングで重ねた動きの成果だろう。だからこその、阿吽の呼吸だった。それぞれのイメージを共有した得点は、まさにサッカーの醍醐味だ。
【試合に敗れても、饒舌に語った】
その後も、札幌は局面で柏を凌駕している。
トレーニングで培ったボールゲームの極意も見事だった。連続したボールの出し入れのなかに筋道が見える。どこに、いつ、どうやってボールを通すのか。人とボールが常に動いていた。サイドチェンジも有効で、左ウィングバックの菅大輝が起点になると、青木亮太や中村桐耶が絡むことで突破口を開いた。引き分け以上で自力での残留が決まる柏に、ほとんどチャンスを作らせなかった。
攻守の回路を作り上げたこと自体、大きな成功と言える。そのなかで、多くの選手が有力クラブに旅立っていった。彼らはミシャ札幌で鍛えられ、成長することができたのだ。
「4-1で敗れたあとで、多くを語るべきではありませんが、我々はすばらしいゲームをやってのけました。しっかりと狙いのある攻撃で」
昨年10月、横浜F・マリノスに大差で敗れた試合後、ミシャは饒舌だった。勝ち負けを越えた、サッカーの信念が伝わってきた。横浜FMのほうが戦力は上だったが、資金力では劣っても、サッカーをすることでサッカーがうまくなる、という戦いを示したのだ。
「今日のような試合を続けることができれば、いつかは幸運にも恵まれるでしょう。楽観的なわけではなく、我々はそうやって戦わないといけないし、戦えるはずです。札幌は25年くらいの歴史のなか、昇格してもすぐに降格し、再び昇格し......ということを繰り返してきました。コンスタントにJ1で戦うこと自体、そもそも簡単ではないのです」
ミシャ札幌は独自のサッカーをとことん追求し、それに殉じることで、スタイルを作りあげた。その結果、今シーズンは残留を勝ち取ることはできなかった。それは幸運ではなく、不運だったと言えるかもしれない。しかし、硬骨な戦いだった。
「95%は(監督業を)終えるでしょう。5%はまだわかりません。札幌を率いないことだけは確定していますが」
広島戦後にそう語っていたミシャは、19年近くにわたりJリーグで監督を務めてきたことを振り返った。
「サッカーは面白いものです。2006年に広島に来て、その年にデビューした青山がホーム最後の試合をする巡り合わせで、運命を感じた1日でした。18年半、柏木(陽介)、森脇(良太)、槙野(智章)、(佐藤)寿人、森崎兄弟......。ともに戦った選手たちがすでにキャリアを終えていますが......私は三つのクラブ(広島、浦和レッズ、札幌)で監督の仕事をして、選手を育ててきた自負があります」
ミシャの恩恵を受けた日本人選手は少なくない。指導者でも、日本代表を率いる森保一監督には大きな影響を与えたはずだ(広島時代は監督とコーチの関係で、森保監督は後任になった)。
「アウェーの地で訪れた時、皆さんが私を温かく迎えてくれるのは大きな喜びで......。自分の仕事があとにどう残ったか、と考えた時に、決して悪くなかった、と思えるのです。一緒に戦ってくれた人が大切で、今も誇りですね。まあ、統計は気にしてきませんでしたが、あと少しだけ、J1、600試合に足りなかったようなんですけど(笑)」
最後までミシャはユーモアを忘れなかった。