鍵谷陽平インタビュー 全6回(5回目)
インタビュー#4>>鍵谷陽平が振り返る名門・北海高時代の前代未聞の出来事
中央大から2012年にドラフト3位で日本ハムに入団した鍵谷陽平氏。1年目から38試合に登板するなど、期待どおりの活躍を見せた。
【理想のボールに近づけた日本ハム時代】
── 晴れてファイターズに入団して、初めてプロのピッチャーを見た時のことは覚えていますか。
鍵谷 キャンプは二軍スタートだったということもあって、「うわっ、プロってすげぇ」というようなことはなく、スッと入れた記憶はあります。ファンやメディアは(大谷)翔平のほうに集まるので、こっちはほんわかマイペースでやれていました。そこまでプレッシャーを感じず、焦らずできたのがよかったかもしれないですね。
── キャンプは途中から一軍に合流しました。二軍との違いは感じましたか。
鍵谷 キャンプの最後のほうで一軍に上がって、オープン戦もずっと帯同しましたが、宮西(尚生)さん、増井(浩俊)さん、(武田)久さんという7、8、9回を投げていた人たちはすごかったです。宮西さんの球の角度はえげつなかったし、増井さんはどこへ行っても元気に投げるし、久さんは低いところからピューッと糸を引くような真っすぐで、今まで見たこともない球でした。「やっぱり勝ち試合の後ろで投げるピッチャーってそうなんだ。すごいなぁ」という感じで見ていました。
── そもそも鍵谷さんが理想としているボールって、どんな球ですか。
鍵谷 擬音で言うと「ギューン」という感じでミットを突き破って、それこそバックネットまでボールが落ちない。
── 理想のボールは投げられましたか。
鍵谷 何球か近づけた感覚はありました。毎年1回ぐらいあったと思います。ここで腕をバーンと振れたら、理想に近づけるんじゃないかみたいな。
── 覚えている試合はありますか?
鍵谷 その感覚に一番近かったのは、2014年のクライマックス・シリーズ(CS)ですね。あの時はシーズン3位でCSに進んで、ファーストステージでオリックス、ファイナルでソフトバンクと戦ったんですけど、ほとんどが150キロ超えで理想のボールに近かった。ほんと絶好調でした。
── 球速もですが、ボールの質という部分でもですか。
鍵谷 質も、ですね。その翌年もよかったんです。
さらに2本のヒットを打たれたところで、急遽、僕がマウンドに上がることになったんです。6番が松井稼頭央さん、7番が後藤光尊さんという並びだったのですが、セカンドゴロと三振に抑えてピンチを切り抜けました。あの時は僕とコンちゃん(近藤健介)の意思がガッチリ噛み合って、全球パーフェクトに投げることができました。コンちゃんは覚えているかわからないですけど(笑)......今でもはっきり覚えています。
【予感的中で巨人にトレード】
── ファイターズという球団はどうでしたか?
鍵谷 良くも悪くもブレないという感じですね。でも「ファイターズはこうだよね」という根っ子の部分は変わらないだけだから、「じゃあ、それに合わせてオレらがやるしかない」という考え方もできるので、やりやすかったです。
── 2019年のシーズン途中の6月28日に、トレードでジャイアンツに移籍しました。シーズン中でしたが、「トレードされるかも」みたいな雰囲気はあったのですか?
鍵谷 その年、10試合連続無失点とかもやっているんですが、打たれた試合はめちゃくちゃ点を取られて......だから防御率は悪かったはずです。

鍵谷 次の日の朝、早出でグラウンドを走って、終わってからロッカーに戻ったら、球団の方が「そのままでいいから上に来て」と言われ、「ジャイアンツにトレードです。よろしいですか?」とひと言。嫌と言ったらクビなので、その場で「はい」って答えました。
── ジャイアンツと言われて、どう思いましたか。
鍵谷 正直「ジャイアンツか......大丈夫かな」と思いました。ファイターズはジャイアンツと逆じゃないですか。のびのびというか、革新的というか。
── 子どもの頃は巨人ファンだったんですよね。
鍵谷 はい、応援していたチームだったので、そういう意味ではよかったなと思いました。それに中央大出身の人も多かったですし。
── 阿部慎之助さんを筆頭に。
鍵谷 当時は阿部さん、亀井善行さん、澤村拓一さん、鍬原拓也がいて、スタッフには堀田一郎さんもいました。
── 堀田さんは北海高校の先輩でもあります。
鍵谷 不安はありましたが、ものすごく心強かったです。
つづく>>
鍵谷陽平(かぎや・ようへい)/1990年9月23日、北海道亀田郡七飯町出身。北海高から中央大に進み、2012年ドラフト3位で日本ハムに入団。