引退インタビュー
青山敏弘(サンフレッチェ広島)後編

◆青山敏弘・前編>>プロの壁、ミシャとの出会い、そして生涯忘れることのない悔しさ

◆青山敏弘・中編>>長谷部誠に「もっと落ち着いてプレーできるだろ」と指摘された

 2015年の3月、ブラジルワールドカップ以降、代表から離れていた青山敏弘はヴァイッド・ハリルホジッチ監督の就任した日本代表に招集される。ウズベキスタン戦にフル出場し、日本代表では最初で最後となるすばらしいゴールを決めた。

 だが、その後に招集されることはなかった。そこには青山の明確な意思が働いていた。

「ハリルさんのチームに最初に行った時、月1で国内合宿をやるって言われたんですよ。結局、やらなかったですけど、その時の自分にはそれに対応できるパワーというか、キャパがなかった。自分には行ける自信がなかったので、(当時サンフレッチェ広島監督の)森保(一)さんに相談したんですね。そしたら、森保さんが協会にかけ合ってくれたんです」

 この決断が、青山のパフォーマンスを回復させた。

青山敏弘は岡崎慎司に言われてハッとした 「もっと無理をすれば...の画像はこちら >>
「もう、そうするしかなかったですね。でも、結果的に自分にとっていい選択だったなって。2015年にリーグ優勝してMVPを獲りましたけど、自分にとってはとてつもなく厳しい戦いの真っただ中で。今だったら、あの時はよくがんばったなとか、すごい偉業だったなって思うけど、それを喜べる余裕もなく、常に苦しくて、いっぱいいっぱいな状況だったんですよ」

 栄光の裏には、他者がうかがい知れない苦しみがあった。それでもその都度、困難を乗り越え、青山は唯一無二のキャリアを歩んでいったのだ。

 2017年には降格の危機に立たされ、森保監督が解任。

何とか残留したものの、「積み重ねてきたものが、一気に崩れ落ちていった」シーズンを過ごした。

 しかし、2018年には一転、優勝争いを演じることになる。

 青山自身もコンディションを戻し、5月にはハリルホジッチ監督の解任を受け、ロシアワールドカップ直前に緊急登板となった西野朗監督の日本代表にも招集された。

【西野監督に「残念だ」と言われて...】

「あの時は身体がフィットしたんですよ。前の年は完全に崩れたけど、そこからまた勝負できる身体を作って、コンディションを上げることができた。城福(浩)さんのベーシックな4-4-2のやり方がすごくハマって結果も出たので、すごく楽しかったですね。自身のパフォーマンスもよかったので、あの身体で代表でも戦ってみたかったですね」

 結局、戦うことはできなかった。またしても試練が訪れたからだ。右ひざのケガによって代表を辞退し、ブラジルに次ぐ2度目のワールドカップ出場はならなかった。

「シーズンの序盤にちょっと痛めて、ずっと痛みはあったんですけど、できないほどではなかった。でも、代表に呼ばれたあたりの試合で、痛みが増してきて。代表には行ったんですけど、ドクターからアウトって言われたので、もうあきらめるしかなかったですね。

 今となっては思うんですけど、ひざ以外の状態はよかったので、あの身体で行っていたらどうだったかなって。

一度ワールドカップを経験しているから、そんな生半可な状態で行ったとしても勝てなかっただろうなという想いもあって。

 でも、前の年にボロボロになった自分が、代表に呼ばれるところまで戻ることができた。そこまで行けただけでもよかったですし、最後に西野さんに言われた『残念だ』っていう言葉だけでうれしかったですね。ここまで上がってこられたんだなって」

 一方で、もっと無理をすればよかった、という想いも拭えない。

「2015年のきつかった時に、ハリルさんの代表を断ってしまった。あの状況に打ち勝てなかったのが、結局自分なんだなって。ここが自分の限界というか、あきらめがついたっていうか。

 でも、あの時(ロシアW杯の代表チームから離脱した時)にオカちゃん(岡崎慎司/当時同じくケガを抱えていた)には『こんなところであきらめられないでしょ?』って言われて。そこでハッとしたんですよ。そうだよなって。

 オカちゃんは、ずっとワールドカップを目標にやってきたから、ロシアでもがんばれた。でも自分は、その前に逃げたとは言わないけど、そこが限界だった。

自分でラインを引いて、結局、そのラインまでしか行けなかった。今思えば、そういうサッカー人生だったんだなって」

【スキッベ監督との出会いにも感謝】

 その後、森保監督が就任した日本代表にも招集された青山は2019年のアジアカップに出場したものの、ケガにより大会途中で離脱。この大会が最後の日本代表となった。

 代表からは離れたとはいえ、青山はクラブでは主力であり続けた。ところが2022年、ミヒャエル・スキッベ監督が就任すると、出場機会が激減する。その年こそリーグ戦15試合に出場したが、翌年は5試合、そして現役最後の年はわずか3試合の出場にとどまった。

 試合に出られない日々を過ごすなかで、青山のなかにはふたつの感情が芽生えていた。

「それでいいと思う自分がいる一方で、また復活できるって期待している自分もいて。どこかでまたググっと上げられるんじゃないかなって、その時をずっと待っていました。でも、その時はやってこなかった。奇跡は起こらなかったですね......」

 高い強度を求められるスキッベ監督のサッカーは、すでに35歳を超えたベテランには厳しいものだった。しかし青山は、スキッベ監督との出会いにも感謝している。

「ミシャが来た時の感覚に近いですね。

スキッベさんもまず基準っていうものをしっかり提示してくれて、そこまでみんなを引き上げてくれた。自分はそこにたどり着けなかったから、試合に出られなかったわけで。

 その基準はすごく明確で、すごく高いものがあって、そこをクリアした若い選手たちがチームを引っ張った。まさにミシャが来た頃の自分たちみたいな存在が、試合に出て活躍している姿を見られたっていうのが、何よりうれしかったですね」

 クラブは生き物だ。新陳代謝を繰り返しながら、歴史を築いていく。ひとつのサイクルが終われば、また新しいサイクルが回り始める。

「2周目を経験できる選手なんて、ほとんどいないじゃないですか。1周すらできないまま終わる人もいるなかで、自分は優勝も経験できたし、2周目まで行くことができた。

 クラブの歴史を積み上げていくのは、こういうことなんだっていうのを再確認できましたね。それをプレーヤーとして経験させてもらったし、この続きをまた、コーチとして現場レベルでやっていける。こんなに幸せなことはないですよ」

【運命を変えた県大会決勝「幻のゴール」】

 引退セレモニーの時、スキッベ監督は2025年から青山がコーチに就任することをサプライズで発表した。サンフレッチェ広島の歴史の生き証人とも言える青山は、これからも新たな立場でクラブの発展に携わっていくことになった。

「これからのことだから、どうなるかはわからないけど、スキッベ監督は自分が選手のうちに、サッカーってこういうものだよ、こうじゃないと勝てないよってものを、バチッと提示してくれた。だから彼らは試合に出られるし、だから自分は試合に出られなかった。

 そこは長く広島にいさせてもらったからこそ、理解できたこと。この3年間はそのためにやってきたのかなって。むしろ、これからのことを思えば、一番必要な3年間だったんじゃないですかね」

 度重なる大ケガ、涙のJ2降格、五輪メンバーからの落選......。振り返れば試練の連続だった。しかし、その試練を成長の糧にできるのが、青山の最大の強みだったように思う。

 その最たる出来事は、作陽高校時代の「幻のゴール」だろう。岡山県大会決勝で突き刺した鮮やかな決勝ゴールが認められず、結果的に試合に敗れてしまう。そんな悲劇など、とうてい味わうことはできない。

「たしかにあれが、自分の運命を大きく変えてくれました。あの出来事で注目されたから、U-18代表に呼んでもらえたし、そこから広島の練習にも参加できて、プロになれた。

もうすべてはあそこからですね。試練をどうやって乗り越えたかは自分ではわからないけど、周りがそういうのを背負わしてくれたんだなと」

 そして「あの出来事があったから、プロに入って何度も立ち上がれる強い気持ちを培うことができました」と引退セレモニーで自ら話したように、稀有なあの経験が21年間、戦い続けてこられた原動力だろう。

「この前もカズさん(森﨑和幸)に言われたんですけど、1、2年目にケガをして、だいたいの選手はそこで終わるけど、そこから上がってきたのは本当にすごいことだって。たしかに新人の選手がまったくピッチに立てずに3年目まで来て、そこから上がっていくのはなかなかないことかなって。

 でも、自分は別にそれがすごいことだとは思ってなくて。本当に努力した結果だから。今思うと一切、手を抜かなかったな。練習も、リハビリも、日常も、試合もすべて。結局、苦しい時にがんばれるかどうか。がんばる理由なんてないですよ。ただ、やらなきゃいけない。それだけのことです」

 妥協なき男は、だからこそ幾多の試練を乗り越えられたのだ。

 21年間の重厚なキャリアは、次なる闘いの序章に過ぎないのかもしれない。青山敏弘のストーリーには、まだ続きがある。

<了>


【profile】
青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ、岡山県倉敷市出身。2004年に作陽高校からサンフレッチェ広島に入団。2006年から主力としてボランチでチームを統率し、2013年には日本代表デビューを果たす。広島を3度優勝に導き、2015年にはJリーグMVPを受賞した。2024年に現役引退を発表し2025シーズンより広島のトップチームコーチに就任する。日本代表歴=12試合1得点。ポジション=MF。身長173cm、体重74kg。

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