空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第19回
(連載18:『24時間テレビ』内のゲーリー・グッドリッジ戦 重圧もあったが「ああいうシチュエーションになると燃える」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第19回は、正道会館の後輩、武蔵の台頭と、それに伴うK-1の変化を語った。
【当時の武蔵の印象は"ただの後輩"】
1999年8月、『24時間テレビ』(日本テレビ系)の企画の一環として生中継されたゲーリー・グッドリッジ戦でTKO勝利を収めた佐竹。その次戦は同年のK-1グランプリだった。
10月5日に大阪ドームで行なわれた開幕戦の相手は、同じ正道会館の後輩、武蔵だった。武蔵は身長180cm超と体格に恵まれ、正道会館の堺支部に所属していたが、K-1参戦を命じられて1995年9月3日のパトリック・スミス戦でデビュー。初めてのグローブマッチを2ラウンドKOで飾ると、翌年のK-1グランプリで3位に入った。その頃、佐竹は長期休養中だったため、"日本の新星"として期待が高まった。
「僕は脳へのダメージもあって休んでいましたし、K-1事務局が有望な選手を見つけようとしている雰囲気はわかりました」a
当時の武蔵の印象は、"ただの後輩"でしかなかった。
「正道会館では彼の昇段試験の試験官もやりました。K-1デビューする時も、本名の森昭生が『格闘家らしい名前じゃないな』と思って、インパクト重視で『宮本武蔵の武蔵にしたらいいんじゃない?』と提案したんです。『ケンシロー』っていう案もありましたが、結果的にはカタカナの『ムサシ』でデビューすることになって(1998年5月24日のK-1 BRAVES '98で『武蔵』に変更)そういった経緯がありましたから、"対戦相手"っていう感じではなかったですね」
ただ、「自分とは格闘家として辿ってきた道が違う」と感じていた。
「僕は正道会館の全日本大会で優勝して、初のキックボクシングで(ドン・中矢・)ニールセンに勝って、リングスに参戦して、USA大山カラテとの対抗戦でウイリー・ウイリアムスとも対戦して......そういった修羅場をくぐり抜けた先にK-1が生まれました。一方で彼には、そういったバックグラウンドがなかった。
K-1ができあがったあとに、グリーン車に乗ってデビューしたような形でしから、印象はパッとせんというか、僕の中では"ワン・オブ・ゼム"の選手でした。だから彼がデビューした頃は、『何をやるにも大変だぞ』と思った記憶があります」
【武蔵のスタイルに「ファンがついてくるのかな......」】
佐竹が休養中だった1996年のK-1グランプリで武蔵が3位となったことも、あまり記憶に残っていないという。
「やっぱり、パッとしなかったですね。スパーリングをしたこともありましたけど、当時は体の線が細くて技は効かなかった。しかもアウトボクシングのスタイルだったから、『ファンがついてくるのかな......』と思ってました。ただ、アドバイスはしませんでしたね。僕は後輩に何も言わないんです。
現役時代は自分のことで精一杯で、手助けをする余裕がありませんでしたし、逆に『上の人に学んで追い越していこう』という考え方でやっていました。だから、『冷たい』とか『厳しい』と言われましたけど、それだけ空手についてはストイックで、常に追求心があった。お笑い番組などにも出ていたので、そうは見えなかったかもしれませんが、漫画の『空手バカ一代』的な生きざまを大切にしていたんです」
そんな武蔵と、初めてリングで拳を交えたのは1998年5月24日、マリンメッセ福岡で開催された「K-1 BRAVES '98」でのことだった。
「試合中も何かピンとこなかったですね。向こうからガンガン前に出てくるわけじゃないから、なんかやりにくくて......」
ただ、この試合が組まれたことに関して、周囲が"世代交代"を求めている空気を感じていた。
「武蔵を(K-1の日本人選手の)中心にしようとしている、というムードは感じましたよ。『俺はお払い箱か』という考えも頭をよぎりました。僕は、自分で『怪獣王国』という事務所を作って独立して活動していましたから、K-1の"子飼い"の選手じゃないわけです。だからK-1事務局が選手のグッズを作ろうとしても、僕の商品は販売できないんです。版権、肖像権は怪獣王国にありましたから。
K-1ができたばかりの頃は、僕もそこまで権利に詳しくなくてK-1事務局がグッズなどを販売していましたけど、僕のところには一銭も入ってこなかったんです。『それはおかしいだろう』ということで、自分の版権は自分で守るために怪獣王国を立ち上げた面もあった。そういうこともあって、いい雰囲気じゃないのはわかるし、そういったことが嫌になってきていた時期でしたね」
武蔵との再戦となったのが、1999年10月のK-1グランプリ開幕戦。その試合での不可解なジャッジが、佐竹にある決断をさせることになる。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。