微笑みの鬼軍曹~関根潤三伝
証言者:尾花高夫(後編)
前編:尾花高夫が振り返る指揮官・関根潤三との3年間はこちら>>
広岡達朗が残したのは「勝つための厳しさ」、野村克也が示したのは「思考する野球」。では、その間に指揮を執った関根潤三がチームに遺したものとは──。
【広岡達朗から学んだこと】
── 前編のラストで予告したように、今回はあらためて関根潤三監督について伺います。尾花さんがプロ入りした時は広岡達朗監督時代で、引退時は野村克也さんが監督でした。昭和と平成のスワローズ優勝監督時代を経験しています。
尾花 そうですね。広岡さん、野村さん、もちろん関根さんと、それぞれの個性があったし、それぞれの監督から、いろいろなことを教わったり、経験したりしましたね。
── プロ選手として活躍する土台、基礎をつくったのが広岡監督時代になりますが、広岡さんはどのような監督でしたか?
尾花 僕はドラフト4位での入団だったし、特別な才能があったわけでもないので、入団当時は「とにかく名前を覚えてもらいたい」という思いだけ。「とにかく必死にアピールしなければ」、そんな思いだけでしたよ。当時は今のように背番号の上に名前が表記されていなかったので、我々の時代は「おい、新人」とか「おい、そこの若いヤツ」としか呼ばれなかった。だから「まずは名前を覚えてもらうこと」を必死に考えていました。
── 広岡監督をはじめとする首脳陣、あるいは先輩たちに名前を覚えてもらうために、どんなことをしたのですか?
尾花 意識したのは、「とにかく元気よく積極的に」ということ。当時は神宮での全体練習が終わると、近くの国立競技場に移動してウエイトトレーニングをやって、それが終わると競技場のトラックを10周するという練習メニューだったんです。僕は中学の時に和歌山駅伝のメンバーとして優勝経験があるので、「長距離なら任せておけ」という感じだったので、いつもダントツ1位だったんです。
── ルーキーがいつもダントツ1位だと、たしかに目立ちますね。
尾花 そうなると、広岡さんも「あの新人はスタミナがある」ということで名前を覚えてくれて、それがよかったのかどうかはわからないけど、ユマキャンプのメンバーにも選ばれました。そこでも積極的に大きな声を出しながらノックを受けていたら、森(昌彦/現・祇晶)コーチが自らミットを持って僕のボールを受けてくれるようになってね。結局は技術や実力ではなく、そういうところから名前を覚えてもらっていったんです。
【関根さんからは、特に何も言われなかった】
── 尾花さんが入団した78年に、スワローズは待望のリーグ制覇、初めての日本一となりますが、それ以降は監督が次々と代わりながら勝てないシーズンがずっと続きます。
尾花 プロに入団した時の監督が広岡さんだったので、僕にとっては「広岡さんがやっていることがプロでの当たり前」という感覚でした。だから、周りの選手たちは「練習が厳しい」と文句を言っていたけど、僕からすれば「練習するのは当然のこと」という考えだったし、そもそもPL学園時代のほうがもっと練習がきつかった。だから、「高校時代に比べればこんなものは楽勝だ」という考えだったんですけどね。そもそも僕は、「練習が厳しすぎる」なんて文句を言える立場になかったですから。
── 前編でも話していたように、ドラフト4位での入団であるし、まだ若手だったから、現状に不満を言える立場ではなかったということですね。
尾花 そんな立場の選手だったにもかかわらず、広岡監督は開幕からベンチに入れてくれたし、4月にプロ初登板、5月にはすぐに初先発の機会も与えてもらいました。今から考えれば広岡監督時代に、僕は土台をつくったんだと思います。
── その広岡監督は、優勝翌年の79年シーズン途中で解任。
尾花 と言っても、ほかに投げられる選手がいなかったから、僕が投げていただけのこと。関根さんからも、投手コーチの小谷正勝さんからも、特にあれこれ言われることはなかったですね。それまでは「先発に、抑えに」という起用だったし、チーム事情でリリーフした翌日に先発することもあったけど、関根さんの時代には「中5日」とか「中6日」とか、ローテーションどおりに投げることになって、その点ではずいぶんラクになりましたね。
── 関根監督、小谷コーチから「特に何も言われることがなかった」というのは、すでにエースとしての立場や実績を尊重してくれていたからでしょうか?
尾花 僕自身、本当に何も言われていないので、その点はわかりません。ただ、それまでの武上監督、土橋監督は口調が厳しかったけど、関根さんの場合は物腰も柔らかかったし、話し方も穏やかだったので、チーム全体のムードはガラリと変わったのは間違いないです。
【それぞれの指揮官が遺したもの】
── 当時若手だったギャオス内藤(尚行)さん、川崎憲次郎さんは、いずれも「関根さんは怖い人だった」と振り返っていますが、尾花さんにとっては「物腰も柔らかかった」という印象のほうが強いですか?
尾花 ギャオスや川崎はそうだったのかもしれないけど、少なくとも僕は「怖い」と思ったことはないですね。繰り返しになるけど、僕は何も言われなかったし、自由にやらせてもらっていたので。だから、この頃の僕は自分のやるべきことをきちんとやるだけ。そんな思いでマウンドに上がっていました。
── 「自分のやるべきこと」とは、具体的にはどんなことでしょうか?
尾花 僕らの時代は、先発投手であれば「年間200イニングを投げること」というのをすごく意識していました。
── 関根監督時代の87年には206.2イニング、88年はリーグ最多の232.0イニングを投げていますが、89年は167.2イニングとなっています。
尾花 89年はあまり調子がよくなかったんですよね。前の年の疲れが残っていたのかもしれないし、やっぱり優勝争いをしているチームじゃないから、みんなが個人の成績のことだけを考えている状態で、あまりいいムードではなかったのも事実でしたね。これは一選手としてとやかく言えることじゃないけど、選手のなかに「絶対に優勝するぞ」という思いがなかったから、余計に自分のことばかり考えてしまっていた。そんな状況でしたね。
── 生前の関根さんは「本心を言えば優勝を狙っていなかった」と話していました。だからこそ、「勝たせる監督ではなく、育てる監督を目指した」とも言っていました。こうした監督の思いは選手たちにも、自然に伝わっていったのでしょうか?
尾花 どうでしょうね。それは僕にはよくわからないけど、若い選手たちにとってはそれでいいのかもしれないけど......。
── 尾花さんのような中堅からベテランにさしかかる選手、すでに実績のある選手にとっては「勝たせる監督」が必要だったのかもしれないですね。
尾花 それが関根さんのあとを継いだ野村監督だったんだと思います。僕はもともと『週刊朝日』に掲載されていた野村さんの連載を含めて、野村さんの本はすべて読んでいたので、「なるほどな」と思うことがたくさんありました。考え方が変わらなければ行動が変わらない。考えれば考えるほど引き出しも増える。引き出しが多ければ多いほど、いろいろな対応ができる。情報を与え、考えることを学び、引き出しを増やす。そうすれば選手は成長するし、チームは強くなっていく。僕はそう思いますね。
── あらためて、3年の在任期間において関根監督がスワローズに遺したものは何だったと思いますか?
尾花 関根さんがチームに遺されたものは「のびのびやる」ということじゃないかな。その「のびのび」で育った選手がたくさんいましたから。そして、監督としては「勝利」よりも「選手」を優先したと思います。関根さん自身が「次世代に向けて育成するんだ」という思いで指揮を執っていて、その目的は達成されたと思います。
── ちなみに、広岡監督はスワローズに何を遺したと思いますか?
尾花 広岡さんは「勝つためには何をすればいいのか?」を遺した監督だと思います。でも、それは結局、数年しか続かなかった。僕の現役最後は野村監督で、僕が引退した後にヤクルトは何度も優勝を経験するけど、野村さんも広岡さんと同様に「勝つために何をすべきか?」を考えていた監督でした。その点が関根さんとの大きな違いだったような気がしますね。それでも、関根さんの下だからこそ成長することのできた選手もたくさんいました。
── その代表例が、前編でも言及した池山隆寛、広沢克己(広澤克実)の「イケトラコンビ」でした。
尾花 もしも野村さんが先に監督になっていたら、当時若手だった池山も広沢も、こじんまりとした選手になっていたかもしれない。僕と広岡監督のように、監督と選手との出会いもまた大切なんだと思います。
関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。
尾花高夫(おばな・たかお)/1957年8月7日、和歌山県生まれ。PL学園から新日鉄堺を経て、77年のドラフトでヤクルトから4位指名を受け入団。82年に12勝をマークすると、84年は自己最多の14勝を挙げた。後年は半月板損傷などケガに悩まされ、91年に現役を引退。引退後は投手コーチ、監督としてさまざまな球団を渡り歩き、多くの一流投手を育てた。23年2月から鹿島学園高(茨城)のコーチとして指導を行なっている。