連載第59回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回はE-1サッカー選手権後も韓国に残って取材をした後藤氏が、韓国のプロサッカーリーグ、Kリーグの現在と歴史を紹介します。
【Kリーグの現在】
E-1サッカー選手権の取材を終えたあと、僕はKリーグの試合を観戦するためにもう1週間韓国に滞在することにした。
韓国のプロリーグはJリーグより10年前の1983年に発足した。つまり、プロリーグの先輩ということになるし、当時の日本サッカーリーグ(JSL)よりかなり競技力も上だったから、1980年代から1990年代にかけて僕は何度も韓国リーグの試合を観戦に行った。だが、最近は日韓の力関係が逆転した。昨季のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を見てもJクラブの成績はKリーグより上だった。また、最近Kリーグのデータを見ていると、首都ソウルでの試合以外では観客数が1万人を超える試合がほとんどないのだ。
Kリーグはいったいどうなっているんだろうか? そんな疑問を解くにはとにかく実際にKリーグを観てみようというわけである。
7月18日には韓国第3の都市、大邱(テグ)で大邱FC対金泉尚武(クムチョンサンム)の試合を観た。ご承知のように、尚武は兵役に就いている選手たちのクラブだ(だから外国籍選手はいない)。
大邱には2002年日韓W杯3位決定戦が行なわれた約6万6000人収容のビッグスタジアムがあるが、都心からバスで50分もかかるので不便だった。だが、2019年には都心の大邱駅からすぐのところに1万2000人ほどの専用スタジアム「iMバンクパーク」が完成した。周囲にはタワマンが建ち並んでいる。
当日は夕方から激しい雨のなか8562人の観客が集まったが、これもアクセスのよさのおかげなのだろう。
試合は点の取り合いでとても面白かった。
現在最下位に低迷しているホームの大邱FCが、ブラジル人助っ人セジーニャの活躍で前半22分までに2点を先行したのだ。そして、現在3位につけている金泉尚武が反撃。後半に入って54分に追いつき、追加タイムに元基鍾(ウォン・ギジョン)が決勝ゴールを決めて逆転した。
試合は昔の韓国サッカーとは違って、パスをつないでビルドアップしたり、ボックス内でのポケットの取り合いだったり、Jリーグの試合とスタイルもレベルもほとんど変わらない印象。サポーターの歌やチャントもJリーグと全く同じだ。
ただ、当たりの激しさはJリーグ以上で、危険なプレーも多く、前半追加タイムには大邱FCのDF洪正雲(ホン・ジョンウン)が重傷を負って倒れ、救急車がピッチ内に乗り入れてくるという珍しい光景もあった。
【Jリーグの10年前にスタートしたKリーグ】
1993年のJリーグ開幕のきっかけの一つとなったのは、1985年に行なわれたメキシコW杯最終予選における韓国戦での完敗(1対2、0対1)だった。
当時の日本代表の森孝慈監督(故人)は韓国の金正男(キム・ジョンナム)監督と学生時代から親交があったので、同監督を通じて両国のプレー環境の違いを知り、プロ化の必要性を痛感したという。
実業団が中心の日本サッカーリーグ(JSL)の人気が低迷していたこともあって、1988年には「活性化委員会」が発足。1991年7月に「日本プロサッカーリーグ(愛称「Jリーグ」)創設」が発表され、1993年に開幕を迎えた。
つまり、Jリーグは5年ほどの歳月を費やし、欧州や米国のプロスポーツを現地調査するなど周到な準備を経て発足した。
また、Jリーグは加盟の条件として独立法人化やユースチームの保有、スタジアムの確保などを要求。こうして、Jリーグは1993年5月に華々しく開幕した。
日本に先駆けること10年。1983年に韓国では「スーパーリーグ」が開幕していた。だが、当初は加盟5チームのうちプロクラブは「ハレルヤ」と「油公」の2チームだけで、大宇、浦項製鉄、国民銀行の3チームはアマチュアのままでの参加となった。
韓国では1979年に朴正熙(パク・チョンヒ)大統領暗殺という大事件が起こり、同12月には全斗煥(チョン・ドゥファン)国軍保安司令官が「粛軍クーデター」を起こして権力を掌握。翌年には大統領に就任していた。軍事独裁政権だ。
若かりし頃はサッカーの名GKだった全斗煥大統領は国民の不満を収める手段としてスポーツを利用しようと考え、野球界とサッカー界にプロ化を要請した。サッカー界は当初「時期尚早」としてプロ化を見送ったが、1982年に開幕したプロ野球の人気を見て、翌年急遽プロ化に踏みきったのだ。
大韓蹴球協会会長だった崔淳永(チェ・スニョン=財閥「新東亜」会長)は元々プロ化推進論者で、1980年には自ら韓国初のプロチーム「ハレルヤ」を創設していた。
1982年に2番目にプロ化したのが「油公(ユゴン)」だった。
「鮮京(ソンギョン)」財閥(現在は「SK」)が国営大韓石油公社の払い下げを受ける見返りに政府の意向を受けてプロチームを設立。チーム名も石油公社の略称「油公」を使用した。済州(チェジュ)ユナイテッド(今年から済州SK FC)の前身だ。
韓国プロリーグは、こうして不完全な形でスタート。参加全チームがプロとなったのは1987年のことだった。また、リーグの名称も「韓国プロサッカー選手権大会」、「蹴球大祭典」、「コリアンリーグ」など、ころころと変わった。
そんな韓国のプロリーグに衝撃を与えたのが、後発のJリーグだった。
そこで、韓国もJリーグに倣ってホームタウン制を明確化。応援スタイルもそれまでは実業団時代と同じような応援団形式で、ド派手な衣装の応援リーダーやチアリーダーが前に出て「フレー、フレー」とやっていたのが、次第にJリーグ的なサポーター中心の形に変わっていった。
【社会の形を反映する日韓の両リーグ】
韓国がいち早くプロ化に踏みきったことが日本を動かしたのだが、韓国のプロリーグのスタートは"拙速"の誹(そし)りを逃れないものだった。一方、日本ではプロ化は遅々として進まなかったが、万全の準備の末にプロ化を成し遂げた。
このあたりに日本社会と韓国社会の違いが表われていると言うこともできるだろう。政治でも経済でも、韓国は何事も決断が早いが、「拙速感」が否めない。一方、日本では入念な根回しや準備が行なわれるが、決定に時間がかかる。
韓国でいち早くプロ化が進んだ理由のひとつは、アマチュア時代から選手たちは実質的にプロに近い存在だったからでもある。引退後は会社を辞めて別企業で働いたり、自ら事業を起こすのが普通だった。
そのため、高い報酬を求めて香港のプロクラブに入団する選手が多く、1980年代には欧州に渡る選手も出始めていた。つまり、選手の国外流出を防ぐためにもプロ化が必要だったのだ。
一方、高度成長期の日本は終身雇用社会だった。そこで、とくに大学卒の選手たちは引退後も定年まで企業戦士として働くのが通例であり、サッカー協会上層部が当初プロ化に反対したのも選手たちの引退後の生活設計を心配してのことだった。
たとえば、初代JリーグチェアマンでJFA会長も歴任した川淵三郎氏は、古河電工サッカー部監督を退任したあとは社業に専念しており、サッカー界に戻ったのは系列会社への出向を命じられたからだったと言われている。
また、プロクラブの母体となったのは日本でも韓国でも国を代表する大企業だったが、韓国企業の多くは1970年代、朴正熙大統領時代に急成長した新興財閥であり、創業者一族が絶対的決定権を握っていたため、彼らがその気になればすぐに物事(たとえばサッカーのプロ化)を決められた。一方、日本企業が意思決定するためには社内での稟議や取締役会の議決が必要だったので、決定に時間がかかった。
こうして、それぞれの社会の形を反映しながら発足した日韓両国のプロサッカーリーグだが、その成功のためには互いの存在が大きな刺激となったという事実は記憶しておくべきだろう。韓国のプロ化から40年、互いのステータスを高めるためには、交流や競争の機会を増やしてもいいのではないだろうか?
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