学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざま部活動の楽しさや面白さは今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、いまに生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【野球】金の国・渡部おにぎり インタビュー前編(全2回)
いよいよ夏の甲子園が始まった。今年も選ばれし球児たちが夢の舞台を駆け回り、私たちの胸を熱くしてくれるだろう。
だがその場所にたどり着こうが着くまいが、甲子園を本気で目指したという経験はかけがえのない財産となる。その証拠に白球に青春を捧げた元球児たちは、野球に限らずさまざまな分野で活躍している。そのひとりがお笑いコンビ「金の国」の渡部おにぎり(30歳)だ。
コンビでは「キングオブコント」で2度の準決勝進出、ピンとしては「R-1グランプリ」で2022年に決勝3位となった実力派芸人の渡部は、今から15年前の春、甲子園を目指して神奈川県の強豪・武相高校の門をくぐったーー。
【"基本に反した"監督の指導に衝撃】
「自分で言うのもなんですが、中学時代は地元の横浜ではそこそこ名の知れた選手だったんです。それでも横浜や東海大相模からオファーはありませんでした。
神奈川県民としてこの2校に憧れる気持ちはありましたが、オファーをくれた高校のなかから決めたほうがいいだろうということで、一番熱心に誘ってくれた武相に入学することにしたんです」

武相というと確かに神奈川県の高校野球界では有名校だが、最後に甲子園に出場したのは1968年で、どちらかという古豪のイメージが強い。
「イメージを僕が変えてやるって気持ちはありましたよ。そういう、漫画の主人公マインドがあるタイプなんで。ただ、男子校で女の子がいないことが最後まで心残りではありましたが......(笑)」
煩悩を振り払って、高校野球のステージに立った渡部がまず驚いたこととは何か。
「野球に対しての考え方ですね。当時の監督は社会人でもトップクラスのプレイヤーだった桑元孝雄監督で、その方の指導を受けたいと武相を選んだところもある。その桑元監督の知識や理論がケタ違いだったんです」
武相OBである桑元氏は、社会人時代に1996年アトランタ五輪の日本代表に選ばれ、銀メダル獲得にも貢献した名プレイヤーで、2009年から武相の監督に就任していた。
「具体的には、打撃で言うと変化球打ちは絶対に泳ぐな、踏み込んだ足でタメをつくれっていうのが一般的な"基本"だったんです。
でも、桑元監督には『泳いでもOK。むしろスイングの時間を長く取ったほうが飛距離が出るからあえて泳ぐことを利用しろ』と教えていただき、実際に僕はその打ち方にむちゃくちゃアジャストできました。
そういう監督の指導や分刻みで組まれた練習メニューなどから、これがレベルの高い野球かと衝撃を受けました」

【3番・塩見を4番・渡部が返す攻撃の形】
高校野球と言えば、過酷な練習。もちろん、武相もその例に漏れない。入部当初の同じ学年の部員数は約50人。全員が渡部と同じくスカウトを受けて入学した実力者だったが、最終的には20人未満になった。練習はそれほどの厳しさだった。
「正月明けに2泊3日のトレーニング合宿があって、バットやグローブを持っていかずにひたすらラントレとウェイトをやるんですが、これが本当に地獄でした。高校時代を振り返ると、最初に思い出す練習があの合宿です。
とくにラントレがキツかった......。合宿に限らず、中学までと走る量が比較にならないんですもん。200メートル×15本を1本28秒以内に走れなかったら連帯責任でやり直し、とか。僕は当時から太っていて走るのが苦手だったので、フライングしたり、ズルしてましたね(笑)」

そう言いつつも、実力が抜きんでていた渡部は入部から間もなくベンチ入り、1年秋から4番キャッチャーに選ばれている。1学年上にはのちにヤクルトに入団し、2021年にはセ・リーグベストナインに輝く塩見泰隆がいたにもかかわらず、だ。
「僕は高校通算13本塁打とたいしたことがなく、どちらかというと中距離打者で打点を稼ぐタイプだった。だから塩見さんより僕のほうがいいバッターというわけではなく、戦術的にそういう打順だったというだけですけどね」
その塩見のポテンシャルはどうだったのか。
「バケモノでした。足も速いし、肩も強い。スイングはめちゃくちゃ速いってわけじゃないのにボールを飛ばす技術が半端じゃなかった。
僕が2年の夏は準々決勝で桐蔭(学園)に2対3で負けちゃったんですが、こっちの2点とも、3番の塩見さんが塁に出て4番の僕が返すという形だったんです。俺、のちのプロ野球選手を2回もホームに返したんだぜといまでも誇りに思ってます」
そして、渡部たちの代となった。

【高校野球生活、これで終わり...? あの事件の舞台裏】
同点の9回裏、日大藤沢の攻撃で1死満塁からインフィールドフライで2死となるも、内野手が間をつくろうとマウンドに集まっている隙にサヨナラのランナーが生還。武相サイドのタイムをかけていたという主張は認められなかった。武相、日大藤沢ともにノーシードだったことから実現した1回戦として屈指の好カードは、意外な形で幕切れとなった。
9回表に代走を送られ、この瞬間をブルペンで迎えた渡部は当時をこう振り返る。
「僕はあまり状況を飲み込めてなかったので、これで高校野球生活が終わり......? と呆然としていました」

最後の夏は不完全燃焼に終わってしまった。それどころか、納得のいかないある部員の整列時の態度をめぐり、インターネットで炎上騒動に発展する後味の悪さすら残ってしまった。
「"昔は強かった"ってイメージを払拭したくて武相に来たのに、また余計なイメージをつけてしまい、後輩たちには申し訳なかったですね......。
ひとつ言っておきたいのはネットでやり玉に挙げられた選手は、ふだんは全然そんなタイプじゃなくてめっちゃいいヤツです。ただ、野球に対して真面目で責任感が強かったから、少し熱くなってしまっただけなんです」
燃え尽きることができなくても、仲間との絆はなかったことにはならない。
「僕らの代って仲のいい子が多くて、いまだに飲みに行ったりしますけど、この試合の話題は必ず出ますね。
勝利だけが部活動の本分ではない。渡部の言葉はそんな当たり前のことを思い出させてくれる。
「僕が9回表に代走で交代せずにキャッチャーをやってたら? うーん、あの緊迫した場面じゃ僕もテンパって同じようにホームを空けちゃうんじゃないかな。
あの時は後輩がキャッチャーをやっていて、責任を感じてすごく泣いてたんです。だから、せめてその負い目は代わってあげたかった。代走さえ出されなければ......。こんなことならラントレ、もうちょっと真面目にやっとけばよかったなぁ(笑)」

後編につづく
<プロフィール>
渡部おにぎり わたべ・おにぎり/お笑い芸人・金の国メンバー
1994年、横浜市生まれ。小学1年から野球を始める。高校はスカウトを受けて神奈川県の名門・武相高に進学し、「4番・捕手」として活躍。1学年上の現ヤクルトの塩見泰隆や現オリックスの井口和明とともにプレーした。横浜商科大学中退後、ワタナベコメディスクールに入り、お笑いの道へ。