連載第64回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 日本でも10代の若手選手の活躍が徐々に増えてきているなか、今回は長くサッカー界を引っ張ってきているふたり、クリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシらの若手時代を紹介します。

サッカー界の二大スーパースターが10代の「若手」だった頃 ロ...の画像はこちら >>

【10代の若手選手の活躍】

 ウェールズに遠征するU-15日本代表のメンバーに梶山陽平氏の息子さんの梶山蓮翔、城彰二氏の息子さんの城秀人が選出されて話題になっている。ひとつ上の世代には小笠原満男氏のご子息、小笠原央もいるし、先日は廣山望氏(U-17日本代表監督)のご子息、廣山濯がU-15Jリーグ選抜で活躍して話題になった。

 有望な若手選手たちの活躍は僕たちに明るい希望を与えてくれる。

 最近は日本の若い選手たちがJリーグを経ずに欧州に渡る例も増えており、日章学園高校からサウサンプトンに加入した18歳の高岡伶颯はレンタル先のヴァランシエンヌ(フランス3部リーグ)でのデビュー戦で早速2ゴールを決めてみせた。

 もっとも、欧州や南米では10代の活躍など当たり前の話だ。

 ラミン・ヤマルなどは今ではバルセロナの中心選手。16歳でスペイン代表史上最年少デビューを果たし、17歳の時にはバロンドールにノミネートされてもいる。

 7月に来日したリバプールでは、16歳のリオ・ングモハが横浜F・マリノス戦でゴールを決めて話題になっていた。

「それに対して日本では......」という批判的な論評もよく目にする。

 実際、日本では育成の主体が高校のサッカー部からJリーグクラブに移ってからも、やはり「高校生年代」というくくりが生きているので、16歳、17歳でトップリーグでプレーする機会があまり与えられないのが現状。日本は育成の成功で世界から注目されているというのに、実にもったいないことだ。

 ただ、若くして大きな期待を集めても、その後活躍できずに消えていった選手も多い。

 たとえば、北アイルランドのノーマン・ホワイトサイドは1982年のスペインW杯で17歳41日でプレーして、ペレ(ブラジル)の記録を塗り替えて注目されたが、ケガや規律の問題で大成できずに26歳で引退に追い込まれてしまった。

大事なことは「その選手がキャリアのピークでどのレベルに到達できるか」であり、"促成栽培"を競うことには意味がないと言うべきだろう。

【22年前のクリスティアーノ・ロナウドインタビュー】

「若手選手」という意味で僕の記憶に残っているのはクリスティアーノ・ロナウドだ。彼がまだ10代の「若手」だった20年以上前の話である。

 2003年の春、僕はポルトガル取材に行った。当時、ポルトガルは次期EURO(2004年)開催国としてスタジアムの建設ラッシュで、ベンフィカ、スポルティング、ポルトの3大クラブも新スタジアムを建設中だった。

 ポルトガルはサラザール首相の独裁政権時代にアフリカ植民地の独立を認めず、経済制裁を受けて欧州のなかでは経済的に貧しい国だった。そのため、スタジアムはいずれも屋根もまったくない旧式のものばかり。当時のポルトガルのサッカー人はフランスやドイツに対して劣等感のようなものを抱いていたようで、こうした国々のことを話す時に「欧州では......」という言い方をした。まるで、「自分たちは欧州ではない」と思っているようだった。

 しかし、EURO開催国になったことでポルトガルにも多くの近代的なスタジアムが建設され、ポルトガル人は自信を取り戻した。

 旧スタジアムの横にあった練習場を取り壊して新スタジアムを建設。古いスタジアムは解体して、跡地にオフィスビルを建設することで利益を生み出し、郊外に土地を入手して広大なトレーニングセンターを建設する。それが共通したスキームだった。

 そんななかで、いち早くトレーニングセンターを完成させたのがスポルティングだったので、その取材に行ったのだ。

 育成担当コーチなどの話を聞いてから、練習に励んでいる若手選手の話も聞こうと思って広報にお願いをした。僕は、無名の若手が来るものと思って待っていたら、広報の女性が連れてきたのはなんとクリスティアーノ・ロナウドとリカルド・クアレスマだった。

「われわれの期待の若手です」と広報の女性。

 たしかにこの時、クアレスマが19歳、ロナウドが18歳。バリバリのティーンエージャーだったが、すでにふたりともトップチームのレギュラーであり、ロナウドのほうはすでにフル代表でもデビューしていたし、クアレスマもこのインタビューの数カ月後に代表デビューを果たした。

 僕は若手選手にトレーニングセンターができて変わったこととか、コーチとの関係などについて訊くつもりだったのだが、有名選手が現われたので慌ててふたりのプレーや少年時代の思い出といった内容に質問を切り替えた。

 面白かったのは、ふたりの性格がまったく違うことだった。

 クアレスマは非常にシャイな性格でボソボソと小さな声で話し始めた。リスボン出身だが、ロマの血筋で差別された経験もあったらしいが、そんな生い立ちのこともフランクにしゃべってくれた。

 一方、ロナウドのほうは快活というか陽気というか、とにかく明るい青年で、「俺はマデイラ諸島出身で訛りが強かったからさぁ、リスボンに来てからはずいぶんからかわれちまってよ......」といった話を、明るく気さくに語ってくれた。

 取材が終わって僕と編集者がトレーニングセンターの入口で帰りのタクシーを待っていたら、真っ赤なスポーツカーに乗ったロナウドが通りかかり、僕たちを見つけて「オーイ」と手を振って颯爽と走り去った。

 その年の夏に、ツーロン国際トーナメント(現モーリスレベロトーナメント)を取材に行ったらポルトガル代表にロナウドも参加していて、試合前に整列している時に僕のことを見つけて懐かしそうに手を振った。彼にとって、日本人のインタビューを受けたのは初めての経験だったので覚えていたのだろう。

【メッシの若手時代】

 2年後の2005年には、そのロナウドの永遠のライバルとなるアルゼンチン人の若手を間近で見ることもできた。もちろん、リオネル・メッシである。

 2005年のワールドユース選手権(現U-20W杯)でのことだ。

 この年のワールドユースはオランダで開催され、同時期に隣国ドイツではコンフェデレーションズ杯が開催されていたので、2枚のADカードを首からぶら下げて、オランダとドイツを行ったり来たりしながら観戦していたのだが、ワールドユースの目玉はなんと言っても、すでにバルセロナで名声を築き上げつつあったメッシだった。

 ちなみに、この大会には本田圭佑平山相太がいたU-20日本代表が出場しており、グループリーグではなんと0勝2分1敗、勝点2という成績で2位に入ってラウンド16に進出した。

 さて、アルゼンチンは1979年の第2回日本大会でワールドユースに初優勝。1995年のカタール大会で2度目の優勝を飾ると、以後、2007年カナダ大会までの7大会中5大会で優勝と、この年代では圧倒的な成績を残しており、パブロ・アイマールやハビエル・サビオラといったスターFWを毎回擁していたが。メッシへの期待感はさらに大きなものだった。

 そして、オランダ大会でもアルゼンチンは準決勝で宿敵ブラジルを破り、決勝では2対1のスコアでナイジェリアを破って優勝。2得点とも決めたのはメッシだった。

メッシはゴールデンボール賞(MVP)とゴールデンブーツ賞(得点王)もダブル受賞。まさにこの大会の主役だった。

 準決勝のあとだったか、ミックスゾーンでの囲みで、僕は最前列でメッシの話を聞く機会があった。僕はスペイン語はある程度は理解できるのだが、メッシの声はとても小さかったのでほとんど聞き取れなかった。それで、体も小さいし、病気(成長ホルモンの分泌異常)のことも聞いていたので、果たしてトッププロとして長くプレーできるのだろうかと心配になってしまった。

 今から思うと、まったく外れな心配だったのだが......。

 僕が出会った3人は、その後も長くプレーし続けた。

 クアレスマはあのアウトサイドキックを武器に活躍。2022年にヴィトリア・ギマラエシュを退団して引退したが、39歳までプレーし、ポルトガル代表でも80キャップを獲得した。

 そして、ロナウドとメッシは欧州の舞台を離れて"都落ち"したものの、ともにまだ代表ではプレーを続けている。来年の北中米W杯に出場すれば、ロナウドは41歳、メッシは39歳でのW杯ということになる。

 若手だとばかり思っていた選手が中堅、ベテランとなって、プレースタイルを変えながらも活躍し続けるのを見るのはとてもうれしいことだ。

現在の若手選手たちも、高いレベルでのプレーを長く続けられるといいのだが......。

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