【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.9
藤原新さん(前編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。オリンピックの大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。最終回となる今回は、当時まだ珍しかった"プロランナー"の肩書きで世間の注目を集め、2012年ロンドン五輪の男子マラソンに出場した藤原新(ふじわら・あらた)さん。
全2回のインタビュー前編は、マラソンへのこだわり、実業団をやめるに至った理由と、ロンドン五輪出場までの苦労を振り返ってもらった。
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【箱根駅伝にはよい思い出がなかった】
藤原新は、駅伝強豪校の諫早高校(長崎)時代、目標にしていた都大路(全国高校駅伝)を走ることはかなわなかった。合宿期間中だったため、箱根駅伝のテレビ中継もほとんど見ることができなかった。
「高校時代は、情報に乏しい田舎の高校生でした」
だが、拓殖大学に入学後、世界が変わった。
「都大路を走れなかったので、1年生の時は、箱根はその借りを返す(ための舞台)みたいに考えていました。でも、箱根(第77回大会)の1区を走った時、考えが変わりました。初めての大舞台でめちゃくちゃ緊張しましたけど、沿道に並ぶ多くの人の応援に背中を押されて、『これが箱根か』って気持ちが高まるなか区間10番で走れた。それで一気に箱根(自体に)に気持ちが寄って、頭の中がもう箱根一色になりました。トラックでの個人種目よりも駅伝一本でいこうと決めたんです」
それは、藤原の持つ競技力とシンクロしたところも大きい。もともとスピ―ドがあり、長い距離も得意で10000mで28分台を目標にしていた。だが、箱根に目覚めた藤原は、箱根の距離(20km)を考えて30kmを走るなど、よりロードに特化した練習をこなしていくようになった。
「完全に箱根中心で、箱根で結果を出すために走っていました」
大学2年時は予選会で敗退したが、大学3年時の第79回大会で箱根駅伝に戻ってくることができた。この時は4区をまかされた。
「3年時は春から故障が続き、練習も積み重ねてきた感じがなかった。箱根の1カ月半前に復帰して、ギリギリでメンバーに入るみたいな状況でした。チームも前回大会で出場を逃していて、以前はシード権獲得が目標だったんですが、その頃から(予選会を突破しての)出場が目標になっていた。この時、僕は区間ひと桁(4位)で走れたんですが、他にそのレベルで走れる選手が少なくて、拓大の弱体化が始まった感じでした」
藤原は4区4位と好走し、チーム順位を15位から12位に押し上げたが、最終的に総合12位に終わり、シード権を獲得することができなかった。4年時は予選会11位に終わり、藤原の箱根は2度の出場で終わりを告げた。
「結局、箱根にはよい思い出がなかったですね。区間賞を取れなかったですし、シード権も取れなかった。優勝なんて、まったく手が届かないような状況だった。箱根で達成したものがなく、むしろ悔しさを抱えて、次のステージでがんばろうって思っていました。そういう意味では、箱根は文字どおり通過点でしかなかったかなと思います」
【2度目のマラソンで北京五輪の代表候補に】
拓大を卒業後、2004年4月にJR東日本に入社し、前年に創設したばかりのランニングチームで競技を継続した。駅伝1本の大学時代から社会人になり、藤原がターゲットにしたのがマラソンだった。
「高校時代から、いつかマラソンをやろうと思っていました。実業団に入って、個人種目で結果を求めて走っていたんですけど、それもすべてはマラソンを走るため。すでにスタミナがあったので、最初はスピード重視でやっていこうと考え、5000mは13分45秒、10000mは28分45秒、どちらかが切れたらマラソンに移行しようと決めていました。」
そして、2006年6月、ホクレンディスタンスチャレンジ網走大会の5000mで13分41秒35を出すとマラソンの練習を本格的にスタート。迎えた初マラソンは、2007年3月4日のびわ湖毎日マラソンだった。
「2時間38分37秒(85位)という結構なタイムをたたき出してしまいました(苦笑)。腹痛と足のマメにやられました。当時、シューズは何を履いても関係ないって思っていたので市販のもので、靴下も好みの厚めのものを着用していたんです。レース当日は気温20度くらいあり、靴下が擦れて20kmぐらいでドデカいマメができてしまいました。
それまで、マメで走れない奴は根性なしだと思っていたんですけど、その考え方はあらためました。これは無理だと思い、ヨタヨタ歩きでゴールにたどり着きました」
ただ、結果は出なかったが、藤原は失敗レースとはとらえなかった。腹痛と足のマメさえなければ入賞も狙えたかもしれないという手応えを部分的な成功と考え、次のレースに向けてポジティブに考えたのだ。
次のレースは、北京五輪の代表選考レースになった2008年2月の東京マラソンだった。
レース前年の11月、藤原はジョグの最中に捻挫をした。もともと足首は硬いほうで、それまでも捻挫をすることはあっても、すぐに走り出せることが多かった。だが、この時は重症で練習を再開できず、元日のニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)に向けて、ウェイトトレーニング、水泳や加圧トレなど、走る以外のトレーニングをできる限り続けた。
「それから1カ月後に最初のスピード練習をやったんです。(1本)2分50秒の設定で1000m×8本のメニューが意外にもできてしまって。実は足にギプスを装着した際、調子がいい時の足首の感覚に似ているなと感じたんです。それから足首を固めて走ることを意識したら、ずっといい感覚で走れるようになったんです」
ニューイヤー駅伝の3週間前に行なわれた3km×3本のチーム練習で3番になり、2区出走が決まった。藤原は区間8位の走りで順位を25位から12位に押し上げた。
「この走りで『東京、いけるかな』って思いましたね。だから、あの捻挫がなかったら、ここまで走れたかどうかわからない。
【マラソンは"的"に当てられるかどうか】
2008年北京五輪の男子マラソン代表は、前年の世界陸上大阪大会で5位に入賞した尾方剛(中国電力)が3番目のイスを獲得し、藤原は補欠選出となり、オリンピックには届かなかった。
だが、藤原は同年12月の福岡国際マラソンで3位になり、翌2009年の世界陸上ベルリン大会のマラソン代表の座を射止めた。この頃、藤原は自分の走りに対して、重視していたことがあった。独特の表現でこう語る。
「僕のマラソンの基本的な戦略は、脂肪代謝とよいフォームで走ることの2点です。人は約2000kcalしか炭水化物を蓄えられないのですが、マラソンを走るには2500kcalが必要になる。だから、脂肪燃焼を最大化させることが必要になりますが、そのデメリットは出力が弱いことです。
出力が弱くて悪いフォームだとスピードが上がった時にすぐに脚が重くなってしまう。だから、小さな"的"にドンピシャで合わせるようによいフォームを出していかないと25kmまでしかもたない。逆に、"的"に合わせられれば42kmいけるし、ラスト1kmを2分50秒で上がれる。その"的"に当てるためには、苦しくてもあきらめないこと。25kmまで我慢していくと、"的"に標準が合わせられる時もある」
2008年の東京マラソン、福岡国際マラソンの両レースは、それがうまくハマった。だが、世界陸上ベルリン大会は、前半はよかったものの、後半に失速し、61位の惨敗に終わった。
「フリーになって活動するのは、大学を卒業する頃から考えていました。最初は注目されていない選手だったんですが、北京五輪の代表候補になるなど、マラソンで結果を出すと、次第に(練習や出場レースの)自由度がなくなってきたんです。当初は強くなればなるほど自由になれると思っていたのが、実際はその逆だったんです。
これがこの先も続くのかと思うとモチベーションも保てないし、実際、調子も悪くなった。本当は(2009年の)世界陸上で卒業しようと思っていたんですが、結果が出ず、(半年後の)東京マラソンで結果が出た。ここがいいタイミングだなと思い、レースの翌日に会社に『やめます』と伝えました」
【東日本大震災後の苦悩】
実業団から離れると、練習場所の確保、食事づくり、レースに出場する際の宿や飛行機の手配から確定申告まで、すべて自分でやらなくてはいけなくなった。それは想定済みでもあったが、2011年に東日本大震災が起こると、スポンサーとの契約金が未払いになるなど、すべての時間が止まり、いろいろな考えが藤原の頭を巡った。
「あの時、日本がどうなるかわからない感じになったじゃないですか。自分も妻子を持つなか、収入がなくなり、しかも、足底筋膜炎で走れなくなったので、実業団をやめなきゃよかったかなと思うこともありました」
国内の沈んだ空気と同時にさまざまな不安が藤原を追い込んだ。
「これはヤバい。このままじゃ終わると思いました。すぐに国立スポーツ科学センターに連絡をして、翌日から宿泊しながらリハビリを始め、2カ月弱でようやく走れるところまで復帰できました。お金がなかったので、前年に優勝したオタワマラソンの賞金で買ったポルシェを売って、国立スポーツ科学センターの宿泊代に充てました。それでふっ切れたような気がします」
それから数カ月後、2012年2月の東京マラソンで2位に入った藤原は、ロンドン五輪のマラソン代表の座と、日本人トップの副賞のBMWと、新規のスポンサーを手に入れた。売却したポルシェは飛躍への通行手形になった。
(つづく。文中敬称略)
>>>後編「先駆者・藤原新が振り返るプロランナーという生き方『アンチの視線は怖かった』『大迫選手のようになりたかった(笑)』」
藤原新(ふじわら・あらた)/1981年生まれ、長崎県出身。諫早高校から拓殖大学に進み、箱根駅伝には1年時(1区10位)と3年時(4区4位)の2度出場。JR東日本在籍時の2008年東京マラソンで、日本人トップの2位(2時間8分40秒)で同年の北京五輪の補欠に選出。2010年にJR東日本を退社し、プロランナーとしての活動を始めると、2012年の東京マラソンで自己ベストを更新し(2時間07分48秒)、ロンドン五輪の代表に選出、本番では45位に終わる。現在はスズキACの男子マラソン監督を務める。