先駆者・藤原新が振り返るプロランナーという生き方「周囲の視線...の画像はこちら >>

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.9

藤原新さん(後編)

 陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。

 そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。最終回となる今回は、当時まだ珍しかった"プロランナー"の肩書きで世間の注目を集め、2012年ロンドン五輪の男子マラソンに出場した藤原新(ふじわら・あらた)さん。

 全2回のインタビュー後編は、念願の出場を果たしたロンドン五輪、そして、プロランナーならではの周囲の喧騒、自身のキャリアを振り返ってもらった。

【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶

>>>後編「ロンドン五輪マラソン代表のプロランナー・藤原新が振り返る『実業団をやめなければ...』から『ポルシェを売ってふっ切れた』まで」

【プロになり、見えないものとの闘いが始まった】

 2012年2月の東京マラソンは、同年のロンドン五輪の代表選考レースだった。藤原新は2時間07分48秒の自己ベストで総合2位、日本人トップとなり、ロンドン五輪マラソン代表の座を手に入れた。

「練習の取り組みが功を奏したかなと。ハーフマラソンに出場したり、10000mのレースに出場したりして、状態を上げていくやり方がハマって、出た試合は全部調子よかった。これは、という感じで東京に臨めたら、そのまま結果が出たという感じでした」

 プロランナーとして、「ロンドン五輪・マラソン代表」の看板は非常にインパクトがあった。多くの企業からスポンサー契約の打診があり、自身のマネジメント会社も設立。有名企業と次々にスポンサー契約を結んだ。

 テレビ、新聞、雑誌などマスコミの取材も積極的に受けた。また、動画共有サイト『ニコニコ動画』を通じて練習費用を募ると、一口500円で2万人、約1000万円が集まった。

「前年は、プロランナーとしての価値は0円でしたけど、ロンドンを決めてから価値を認めてもらえるようになったのは大きかったですね。

ニコニコ動画に関しては、『ニコニコ超会議』への出演がメインだったのですが、『それとセットでクラウドファンディングのようなことをお願いできますか?』と打診されたので、特に深く考えずにOKしました。

 ただ、その反響の大きさには、正直、驚きました。会見場で隣に座っていた事務局長の方が『助けてください』と深々と頭を下げたのもあって、見え方としては(僕が)困っているから助けてあげて、というような形になってしまいました。自分も苦しまぎれに『キャッシュがない』というような、よくわからないようなコメントをしていたと思います。

 会員の方が支払っている会費(500円)を僕のサポートに充てる。この賛同人数が2万に達すると、出演料も割増される形で支払われるというような内容でした。開始してすぐに2万人分の賛同は得られました。その賛同自体は本当にありがたいことなんですが、ここから自分に対する世間の見方みたいなものを意識し始めました。なんというか、見えないものとの闘いが始まった感じでした」

【アンチの声「マラソン選手は黙って走ればいい」】

 プロとして活躍する姿をまぶしくとらえる人がいる一方、藤原の言動や姿勢に嫌悪感を抱く人もいた。「マラソン選手は黙って走っていればいい」「調子に乗るなよ」という声も聞こえてくるなど、藤原への注目度は一気に高まった。

「そこそこ追い込まれましたね。周囲の視線が怖かったです。やっぱりオリンピックってすごいんだなと思いました。

でも、スポーツってそんなもんじゃないかなという考えにも至りました。いい時はホメても、ダメな時はバカヤローって言えるのがスポーツのあるべき姿なのかもしれない。

 例えば、サッカーでは負けて(選手が)生卵を投げつけられることがあった。平時に生卵なんて投げたら大喧嘩になりますし、もちろん、今の時代に許されることではないとも思いますが、その一方でスポーツの現場だからこそ、ある程度の健全さを保てていたとも思うんです。僕はそういう一面を提供したのではないか、意味のあることなんじゃないかと思っていました」

 ロンドン五輪前、藤原はフランスのサンモリッツで合宿をした。ヨーロッパの選手たちが利用するホテルがあり、藤原もそこに投宿し、調整をしていた。選手たちと食事している際、いつロンドン入りをするのかという話になった。

「僕は、大会1週間前に入ると言ったんです。そうしたらポーランドのヘンリク・ゾストという選手が『マジか、お前?』って顔をしたんです。『1週間前は、一番疲労が出るタイミングだ。お前、(ビクトル・)ロスリン(スイス)と友人だろ? あいつは高地トレーニングをよく理解しているから相談してみろ。とにかく1週間前だけはやめろ』と真顔で言われたんです。

 でも、事前に昆明(中国)で合宿していた時も問題なかったので、そのまま自分のプランどおりに1週間前にロンドンに入ったんですが、ずっとゾストの言葉と表情が頭の隅っこに引っかかっていました」

 ヨーロッパのトップランナーの提言がリアルなものだったのかどうかは定かではないが、ロンドン五輪のレースで、藤原は後半、苦戦を強いられることになる。

【ロンドン五輪は45位惨敗も、後悔はない】

 2012年8月12日、ロンドン五輪の男子マラソンがスタートした。最初に3.571kmを走ってから、12.875kmの周回コースを3周するレースで、藤原は先頭集団に入ってレースを展開していた。20kmでキツくなり始めたが、25kmを超えても藤原は粘っていた。30km地点では、優勝候補の一番手に挙げられていたウィルソン・キプサング(ケニア)の後ろについた。

「もうめちゃくちゃキツかったです。オリンピックだから最大限がんばって30kmまではいけたんです。でも、そこで両脚(のふくらはぎ)が攣ってしまって......。これ以上は無理だと思い、そこからペースダウンしてしまいました。35kmからの5kmは20分21秒もかかって、もう最後は重たい脚を引きずって走るみたいな感じで終わりました」

 初の五輪は、2時間19分11秒で日本選手最下位の45位に終わった(※中本健太郎が6位、山本亮が40位)。ただ、結果を出せない悔しさはあったが、もっとこうしておけばよかったという後悔は不思議となかった。

「この時、金メダルを獲得したのはスティーブン・キプロティチ(ウガンダ)だったのですが、僕はそのシーズンの東京マラソンで彼をラスト200mで抜いて競り勝っているんです。勝負してメダルを獲れた、獲れなかったというのは結果論で、大事なことは可能性がある状態でオリンピックのスタートラインに立ったこと。

そういう意味では僕にもメダルを獲れた可能性があったし、そこまではいけた。結果はダメでしたけどね(苦笑)」

 ロンドン五輪後は苦しい時間が続いた。2013年2月の丸亀ハーフマラソンに向けての練習中、左ハムストリングの付け根を痛めたため、同レースと、同じ2月開催の東京マラソンは欠場した。

 イスに長時間座っているだけで痛みが出ることもあった。とりわけ走り始めは痛みがひどかった。ただ、それを我慢してしばらく走っていると、徐々に痛みを感じなくなり、なんとか練習をこなした。容易に完治しなかったが、2015年には北海道マラソン、富山マラソン、防府読売マラソンと、マラソン3大会連続連勝を果たした。

 翌2016年2月には、リオデジャネイロ五輪の代表選考レースである東京マラソンに出場。だが、またしても35km過ぎに失速。ズルズルと順位を下げて44位(2時間20分23秒)に終わり、2大会続けてのオリンピック出場の夢は砕け散った。

「ケガをしてからは、2016年の東京マラソンまで7レースを走っているんですけど、一度もサブテン(2時間10分以内)をしていないんです。以前は、マラソンを走ると2回に1回は"的"に当たっていたんですけど、ケガをしてからは5回に1回ぐらいで、しかも、ホームランではなく、ツーベースぐらい(苦笑)。

自分のレースがまったくできなくなってしまった。

 この左ハムの故障がすべてでしたね。もう過去の自分を超えられないし、周囲からは『何やってんだ』って言われる。ロンドン後は本当につらかったです」

【故障を経験していなければ、人の痛みや苦しみを理解できなかった】

 だが、その故障が藤原の人間的な成長を促してくれた。

「故障を経験していなければ、練習でタレた選手に対して『なんでできないんだ、バカヤロー』と言い放つような、人の痛みや苦しみが理解できない人間になっていたんじゃないかなと思います」

 藤原は2019年4月、スズキ浜松AC(現・スズキAC)の長距離走・男子コーチに就任した(現在は男子マラソン監督)。自身の口からは引退の言葉はなかったが、事実上の引退でもあった。競技人生を振り返った時、藤原はなぜ走り続けたのかと問うと、こう答えた。

「どこまでいけるんだろうって、自分の限界を知りたかったからですね。走り続けていくなかで、陸上やプロの世界はそんなに甘くないだろうと思いつつも、意外と前にいけた。そうして、オリンピック(北京大会)の補欠になり、ロンドン(大会)では出場できた。壁は何度も経験したんですけど、限界もなかなか見えてこなかったので、もう少し、もっと深みまで続けてみようという思いで走ってきた感じです」

 実業団からプロのランナーになり、自分の能力だけを頼りにチャレンジするなかで、認められることの喜びと社会の怖さを経験することができた。ただ、大きな舞台で成功することができなかった。

「そこで成功することができていれば、またちょっと違う道が開けたかもしれない。そういう意味では、大迫(傑)選手はすばらしいと思います。僕も彼のようになりたかった(笑)」

 藤原はそう言った。

「大迫選手は、箱根駅伝で活躍して交渉力を持った状態で実業団に駒を進め、基盤を固め、それをもとにしてアメリカに行った。そこでさらに競技力を上げてプロになり、世界にチャレンジしていった。トップステージにいることに慣れているし、ノイズが大きくなるとアメリカに行き、自分をしっかりコントロールしている。

 でも、僕は箱根でつまずき、その時点で能力が足りないんですけど、実業団チームと大きな契約が取れる選手ではなかった。卒業後、ぽっとトップステージに現われ、神輿に担がれて、ワーワー言うだけで軸足がブレていた。途中までは、自分がやりたいことが実現できたけど、大迫選手のように突き詰めることができなかったし、大舞台で結果を残せなかったのは残念でした」

 競技者としては大迫が藤原を超えて前に進んでいった。だが、藤原がこれから指導者として大迫を超える選手を育成し、五輪など大舞台のスタートラインに立たせる可能性は十分にある――。

(おわり。文中敬称略)

藤原新(ふじわら・あらた)/1981年生まれ、長崎県出身。諫早高校から拓殖大学に進み、箱根駅伝には1年時(1区10位)と3年時(4区4位)の2度出場。JR東日本在籍時の2008年東京マラソンで、日本人トップの2位(2時間8分40秒)で同年の北京五輪の補欠に選出。2010年にJR東日本を退社し、プロランナーとしての活動を始めると、2012年の東京マラソンで自己ベストを更新し(2時間07分48秒)、ロンドン五輪の代表に選出、本番では45位に終わる。現在はスズキACの男子マラソン監督を務める。

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