Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第11回】アモローゾ
(ヴェルディ川崎)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第11回はヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に在籍したアモローゾだ。このブラジル人アタッカーは、トップチームの公式戦に一度も出場することなく日本を去った。それなのに、強烈なインパクトを残したのだった。

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【Jリーグ】「日本に帰化してもいい」と言ったアモローゾ ヴェ...の画像はこちら >>
 アモローゾはJリーグ開幕前年の1992年に来日した。18歳の誕生日を数カ月後に控えたタイミングだった。ブラジルではユース代表候補に選ばれていたが、「自分をほしいと言ってくれた期待に応えたい」と、意欲を持ってヴェルディの一員となった。

 来日当初は、身体の線が細かった。フィジカルが出来上がっていない印象があったから、1992年は野球のファームにあたる「サテライトリーグ」でプレーした。

 ここでいきなり、得点王に輝くのである。ゴールのパターンは多彩で、ドリブルシュートやヘディングシュートを決めれば、アクロバティックなジャンピングボレーやオーバーヘッドも見せた。直接FKを蹴らせると、グサリとネットへ突き刺した。

 ゴールゲッターだけでなく、パサーとしての才能にも長けていた。局面を変える中長距離のパスを出しながら、ショートパスで攻撃のテンポを生み出し、DFラインの急所を突くスルーパスを通す。

 さらに言えば、ドリブラーでもあった。スルスルという音がするようなドリブルで、DFを置き去りにしていくのだ。細かなステップと重心移動で、相対するDFの逆を取るのがうまかった。179cmのサイズから想像する以上に足が長く、それがまた独特のリズムや間合いを生み出してもいた。

 サイズ以上の印象と言えば、ヘディングも強かった。滞空時間が長く、打点の高いヘディングでゴールを狙い、ゴール前でのフリックは効果的だった。ジャンプ力がまた異次元で、空中で華麗にボールを操った。

【アモローゾの名前がない!】

 そのプレーをひと言でまとめれば、「ブラジル人らしい10番」となる。ゲームメーカーの役割を果たしながら、相手ゴール前でゴールゲッターとなる。10代にしてすでに、独特の風格のようなものを感じさせた。

 ところが、1993年5月15日の開幕ゲームに、アモローゾの名前はないのだ。

その後も、一度として。

 当時のJリーグは、外国人の出場枠が「3」だった。ヴェルディには1992年からブラジル人CBのルイス・カルロス・ペレイラとFWパウリーニョが所属し、Jリーグ開幕直前にオランダ人のFWヘニー・マイヤーとDFイェーネ・ハンセンがやってきた。その後もオランダ人のCBエリック・ファン・ロッサム、ブラジル代表歴を持つMFビスマルクらが合流してくる。外国人枠に空きはなかった。

 アモローゾの出場を難しくしたチーム事情もあった。

 Jリーグ開幕以前から日本サッカー界をリードしてきたヴェルディは、優勝候補の大本命だった。カズこと三浦知良がいて、ラモス瑠偉、都並敏史、柱谷哲二、武田修宏、北澤豪ら、アメリカワールドカップ出場を目指す日本代表が揃うこのチームは、1992年に発火したサッカーブームを牽引する存在でもある。

 初代王者になることを期待され、当事者たる彼らもリーグ制覇を至上命題としながら、ファーストステージではジーコを擁する鹿島アントラーズの後塵を排して2位に終わった。セカンドステージでの巻き返しを図るチームに必要なのは、未知数の才能としてのアモローゾではなく、カズと武田にゴールチャンスを提供できるビスマルクだったのだ。

 2025年の今なら、期限付き移籍のオファーが殺到していたに違いない。しかし、当時はトップチームで出場機会のない選手の受け皿として、サテライトリーグが運営されていた。

ヴェルディでチャンスを待つことが、唯一と言ってもいい選択だった。

 近しい関係者には、「日本に帰化してもいい」と話していたと聞く。だが、Jリーグ開幕の熱狂と遠い場所でボールを蹴り続けるのは、そのポテンシャルにふさわしくなかったのだろう。1993年シーズン限りで、アモローゾはブラジルへ帰国した。Jリーグの公式戦に一度も出場することなく、日本を去ったのだった。

【イタリアとドイツで得点王】

 そこから先の疾走感は、爽快だ。グアラニとフラメンゴでの活躍を認められ、当時世界最高峰と言われたセリエAのウディネーゼに移籍する。在籍3シーズン目の1998-99シーズンには、22ゴールを叩き出して得点王に輝く。

 ウディネーゼからパルマへステップアップし、2001-02シーズンからドイツ・ブンデスリーガのドルトムントの一員となる。バイエルンの4連覇を阻止してマイスターシャーレを掲げたチームで、アモローゾはリーグ最多の18ゴールを叩き出す。マルティン・マックス(1860ミュンヘン)と並んで得点王となった。

 このシーズンのドルトムントは、UEFAカップで決勝まで勝ち上がっている。アモローゾはミランとの準決勝ファーストレグで、ハットトリックを達成した。

決勝戦では小野伸二が在籍するフェイエノールトと対戦し、2-3で競り負けた。この試合でも自ら得たPKを決めている。

 ブラジル代表には1995年から2003年にかけて招集され、19試合に出場して9ゴールを記録している。1999年3月には国立競技場で日本代表と対戦し、フィリップ・トルシエ体制2試合目の相手から先制ゴールを奪った。

 セレソンにおけるハイライトは、1999年のコパ・アメリカだっただろう。2歳年下のロナウドと2トップを組み、リバウドがトップ下に立つ攻撃は、カフーとロベルト・カルロスの攻撃参加も加わって、多彩にしてファンタスティックだった。準々決勝でアルゼンチンを、準決勝でメキシコを、決勝でウルグアイを下して連覇を達成したブラジルで、アモローゾはロナウド、リバウドに次ぐ4ゴールを記録している。

 優勝後の取材エリアでは、「これまでのすべての経験が、今大会での僕のパフォーマンスにつながったと思う」と話した。

 彼が言う「経験」に、Jリーグでの2年間が含まれているのか──あらためて確認をしたいところだったが、その場にはふさわしくない質問だっただろう。ブラジル人記者とのやり取りを、そのまま聞くことにした。

【Jリーグのクラブから世界へ】

 Jリーグのクラブから世界へ羽ばたいた助っ人外国人と言えば、誰もが思い浮かべるのはフッキと朴智星だろうか。前者はJ2の舞台で規格外の得点能力を発揮し、ポルトガルの名門FCポルトへステップアップした。

後者は京都サンガでプロキャリアをスタートさせ、J1昇格や天皇杯制覇に貢献し、ヨーロッパへ活躍を移した。

 アモローゾの足跡を、Jリーグに見つけることはできない。まだ若くて華奢だった彼は、クラブに勝利を運ぶ助っ人外国人とは成り得なかった。

 それでも、彼とともにプレーした者、彼のプレーを見た者は、その姿を記憶に強く刻印している。一度でいいからJリーグで見てみたかった、との思いとともに──。

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