後編:野茂英雄の元チームメートが語るドジャースの1995年と2025年
ナ・リーグ西地区を4年連続で制覇したロサンゼルス・ドジャース。優勝を決めた9月25日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦では、大谷翔平が自己最多タイの54号本塁打を放ち、山本由伸は先発として役割を果たし勝利投手となった。
その様子をドジャースの解説者として見届けたエリック・キャロスは今から30年前の1995年、地区優勝を果たした時のドジャースの一塁手。同時にメジャー挑戦1年目の野茂英雄が道なき道を切り開き、地区優勝を決定した試合の勝利投手になった奮闘ぶりを間近で見ていた人物である。
そのキャロス氏にいまだに語られることの少ない野茂の素顔と、大谷翔平との違いについて、話を聞いた。
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【ヒデオは常に『チームのため』に動いていた】
――現在のドジャースには日本語を話せるスタッフがたくさんいます。でもメジャー1年目、1995年当時の野茂英雄には通訳がひとりいるだけで、日本文化を理解している人もほとんどいなかった。彼は完全によそ者でした。どうやってやり抜いたのでしょう?
「正直、どうやってやり遂げたのかは私にもわかりません。ただ、流暢に英語を話せなくても、きちんとコミュニケーションは取れていました。たとえば、当時同じ投手だったイズマエル・バルデスとはよく話していましたし、交流できていた。そして必要な内容はしっかり理解していました」
――MLBのクラブハウスには昔から"暗黙のルール"のようなものがあります。そして、あなたのように前からいる選手が新人にそれを教える。言葉の壁がある野茂に、それを伝えるのは大変だったのでは?
「そこはまったく問題ありませんでした。というのも、ヒデオが自分勝手に振る舞おうとしなかったからです。
――1995年5月2日、野茂のメジャーデビュー戦では、あなたもスタメンでした。5番を打ち、一塁を守っていましたね。あの試合で覚えていることは?
「正直、特に覚えていないんです。でも彼と一緒に戦っていくなかで、ヒデオが"すごい根性"の持ち主だということはわかっていきました。たとえ体が痛んでいようと、極端に言えば腕が今にももげそうな状態でも、マウンドに立ち続ける覚悟があった。コーチが様子を見に来て『調子はどうだ?』と聞いても、『大丈夫』とだけ答える。"さっさとベンチに戻ってくれ"という態度です。
――日米の文化的な違いも影響していたのでしょうか?
「そうですね。実は私の父は銀行員で、勤めていた銀行は当時日本企業に買収されていました。そこで常に『会社第一』という文化を目にしていたので、ヒデオも同じように『チーム第一』だったのではないかと感じます。彼は僕らと一緒にファームで育ってきたわけでもないし、長い関係があったわけでもない。それなのにドジャースのために全力を尽くした。肩や腕の調子が万全でないときでも、多くの球数を投げましたし、イニングの合間には体をほぐしていました。
つまり"何があっても投げ続ける"という姿勢だったのです。その姿には脱帽しました。私が一緒にプレーしたなかでも最高のチームメートのひとりです。『絶対にこの試合は勝ちたい』というときに、先発を誰に託すかと聞かれたら、迷わずヒデオと答えたでしょう。ものすごく肝が据わった投手でした」
【野茂と大谷――それぞれが際立つものとは?】
――6月になると、野茂は先発で6連勝を飾り、「ノモマニア」と呼ばれる大ブームが巻き起こりました。
「あれは本当にすごかったですね。
でも、熱狂したのは日本人ファンだけではなかった。登板日になると球場全体がカメラのフラッシュで光り輝いたんです。今のようにスマートフォンがある時代ではありませんでしたが、当時のカメラのフラッシュが一斉に光る。その光景は、今も忘れられません」
――あなたは選手として野茂と一緒にプレーし、現在は解説者として大谷を見ています。ふたりに共通点はあると思いますか?
「正直に言えば、共通点はあまりないですね。翔平は、もしかすると史上最高のフィジカルを持った野球選手かもしれません。世界中の野球選手のなかでも、最も才能に恵まれた存在だと思います。
もちろん、私は翔平に闘志がないと言っているわけではありません。ただ、ヒデオの"純粋な競争心"や、"身体がどんな状態であっても戦い続ける姿勢"は際立っていました。一方で翔平には、フィジカルの面で本当に信じられないほどの才能がある。ヒデオは腕がもげそうな状態でも、平然とボールを受け取る。だから私たちチームメートは、そんな姿勢を心から愛したんです。"死ぬまでマウンドに立たせてくれ"――彼はまさにそんな気持ちで投げていたと思います」
――最近、野茂に会う機会はありましたか?
「実は7月にロサンゼルス国際空港(LAX)で偶然会ったんです。私はFOXのテレビ解説の仕事を終えて帰宅するところで、目の前に彼が立っていて、『あれ、ヒデオ?』と声をかけました。すると彼も気づいて、『おお!』という感じで、私たちは抱き合いました。
その場でしばらく立ち話をしましたが、主に家族の話題でしたね。
野茂は多くを語る人物ではない。だからこそ1995年についても、まだ語られていない部分が数多く残されている。しかしキャロスの証言を通じて、あの年、野茂がどれほどの覚悟を持ってマウンドに立ち、そしてアメリカの仲間たちに強烈な印象を残したのかが浮かび上がった。
そのレガシーは今も脈々と息づいている。大谷、そして山本――ふたりのキャリアは、野茂が切り開いた道の先に続いているのである。