2026.1.4引退! 棚橋弘至引退カウントダウンSPECIAL! 第1弾
棚橋弘至×藤波辰爾「ドラゴン魂継承対談!」全4回#2
棚橋弘至が憧れを告白する相手は、プロレス界のレジェンド・藤波辰爾。少年時代に夢見た強さ、"神様"カール・ゴッチに鍛え上げられた鋼の肉体、そしてニューヨークで生まれた必殺技。
【藤波さんになりたかった】
棚橋 藤波さんは少年時代、プロレスのどこに惹かれたんですか?
藤波 本来はプロレスなんて怖いから、オレなんか最初はずっと大人がテレビで見てる肩越しで怖々見てたんだよね。だから最初は怖いもの見たさだった。それがいつの間にか夢中になって、中学生になると自分もやってみたいと思うようになった。それはまったく人との争いをした経験のない少年だったから、逆に自分がまったく知らない世界に身を置いてみたくなったというか。
棚橋 まさに僕もそうなんです。自分が強かったからではなく、「ここに飛び込んだら強くなれるんじゃないか?」と思ったんです。
藤波 オレたちはそうだよね。自分のコンプレックスというか、自分にはないものをプロレスで得ようとした。そしてやっぱりオレは(アントニオ)猪木さんに憧れていたね。レスラーってみんなそうだと思う。棚橋くんだって、前田(日明)も高田(延彦)も、みんな猪木さんになりたいんですよ。
棚橋 いえ、僕は藤波さんになりたかったんです。藤波さんと闘った選手はみんな光っていて、「どうしてなんだろう?」と思ったら、光らせているのは藤波さんなんだと気づいてしまったんです。
藤波 そんな深いところを見てたんだ?
棚橋 それと藤波さんは名前に「辰」の文字が入っていて男らしいし、キャッチコピーが"ドラゴン"じゃないですか。必殺技もドラゴン・スープレックス、ドラゴン・スリーパー、ドラゴン・スクリュー。レスラーとしてこんなに運命的で最高にかっこいい人はいないと思いました。まるでヒーローが最強武器を装備しているような感じで。
── そして鋼のようなボディをしていて。
棚橋 そうなんですよ。
── 顔立ちも端整で。
棚橋 そうなんですよ。
藤波 いやいや(笑)。
棚橋 最近はイケメンという言葉があって、何年か前にイケメンレスラーっていうのが注目されたりもしたんですけど、藤波さんはその元祖ですから。
藤波 その元祖はどこに行ったのかな?(笑)。鋼のボディもかなり退化しちゃったからね。オレは若手時代、フロリダのタンパに行って、カール・ゴッチさんのところで修行したんだけど、あそこで寝泊まりをして、四六時中一緒に練習と生活を共にしたのってオレだけなんだよね。もう途中からは息遣いまで一緒になっていた。道場がないから庭の芝生の上で練習するんだけど、とんでもない緊張感だから太れなくて、身体が大きくならなかった。
棚橋 食べても食べても、運動量が超えちゃうんですね。
藤波 そう。それで絞りきった身体になっちゃった。
【異色だったカール・ゴッチの存在】
棚橋 今は一般でもフィットネスという概念が広がっていますけど、藤波さんは40年、50年も前から本当にかっこいい身体をつくり上げていたんですよね。
藤波 オレなんかは考え方とか生き方があんまり器用じゃないから、まっすぐにゴッチさんから言われたことをやっていただけで。猪木さんに憧れてプロレスの世界に入って、まず猪木さんから「プロレスとは何ぞや」というものを多少聞いて、そのあとに実際にカール・ゴッチと練習をした。ゴッチさんには科学的な基礎からの身体づくりから、格闘技を闘うにはこういう動きが必要だという練習を毎日徹底的にやらされて、ほとんどマインドコントロールされていたもんね。
棚橋 忠実に言われたことだけをやり続けて。
藤波 それでオレは22歳からアメリカで試合をするんだけど、当時のアメリカはみんな身体のデカい選手ばっかりですよ。特にノースカロライナという中部にいたから、日本人もあまりいないところで本当にデカいのしかいなかった。でもオレはカール・ゴッチと練習をやっていたから恐怖感が芽生えたことはなかったんだよね。
棚橋 すごいですね。

棚橋 アメリカのプロレス界のなかでも、ゴッチさんの存在は異色だったんでしょうね。
藤波 身体は絞ってるし、動きはいいし、コンディションもいい。それはカール・ゴッチによってつくられたものだということを知って、「絶対にコイツは何かやってくるぞ」って警戒されたからね。
棚橋 何かを隠し持ってるぞ、みたいな。
── そういう藤波さんの練習に対する従順な姿勢は、ゴッチさんもかわいくてしょうがなかったでしょうね。
藤波 やっぱりゴッチさんは教えるのが好きだったね。特にオレら日本人というのは几帳面で、チョップにしてもものすごく姿勢がいいでしょ。アメリカの選手みたいに適当じゃないから日本の選手のことはすごく好きだったね。
【ドラゴン・スープレックス初披露】
── そうして凄みや迫力を手に入れつつ、日本に帰国すると棚橋さんと同じくアイドル的な人気を博して。藤波さんは元祖アイドルレスラーでしたよね。
藤波 当時はアイドルレスラーなんて言葉はなかったし、オレ自身にもそういう意識はなかったけど、だんだんと周りにそういうファンがついてきているなっていうのは感じてた。若手で下積みも長かったし、格闘技の経験もなくて自分のことで精いっぱいだったから「何かやらなきゃいけない!」っていう意識が常にあった感じだよね。だから帰国する直前にニューヨークでベルト(WWWF世界ジュニアヘビー級王座)を獲った時、当時の新日本には新間寿さんという人もいて、あの人は猪木さんの下にもうひとりスターをつくらなきゃいけないという意識があったんでしょう。だから試合前にいつも言われたよ。「いいか。必ず何かやれよ」って。ほんと無責任だよね(笑)。
棚橋 「何かやれよ」(笑)。
藤波 ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初めて上がった時もそうだった。あの時のマディソンはいまだに思い出しても本当に身震いがする。今ではあそこ以上の大観衆が入る会場があるけど、やっぱ当時の大会場と言えばマディソンだからね。海外のいろんなところでやったけど、あのマディソンのリングに向かう時は熱気と重圧で、花道から押し戻されるんじゃないかと思った。
棚橋 でも、あそこでドラゴン・スープレックスを初公開して大爆発ですもんね。動きも最高によかったです。
藤波 あれも新間さんのリングに上がる前のひと言ですよ。「何かやれよ」と。それまでブリッジはずっとゴッチさんから四六時中やらされていたけど、ゴッチさん自身もフルネルソンのスープレックスはやったことがない。ただ、スープレックスには5、6種類あるとは教えてもらって知ってはいた。あの時はただ無我夢中でやっただけだよ。
── じゃあ、練習でもやったことがなかったんですか?
藤波 そう! あのリング上でやったのが初めて。
棚橋 初トライ!
藤波 ゴッチさんのところにはダミーの人形があって、寸胴で中に砂が入った80キロぐらいある重いやつで、それを持って練習していた。でも人間にやったのはあれが初めて。
【誰も口を聞いてくれない】
── 危険も伴いますよね。
藤波 相手(カルロス・ホセ・エストラーダ)がたまたまケガをしなかっただけで危ないよ。次の日に写真を見たら、彼は頭からリングに突き刺さっていたもんね。これは絶対にケガしそうだなと思って。
棚橋 藤波さんが初めて出されたということは、ホセ・エストラーダが初めてくらった人。
藤波 そうだね。首はかなり痛かったらしいんだけど、よく彼はあれをくらって起き上がってきてくれた。もし起き上がれずにケガしてそのまま担架なんかで運ばれていたら、オレはたぶんニューヨークにいられなかったね。だってリングを降りたら、ブルーノ・サンマルチノとかゴリラ・モンスーン、ペドロ・モラレスとか当時のスターたちがみんな控室にいて、祝福どころか、誰もオレのところに来てくれなくて遠巻きに見ていて。
棚橋 うわあ。「危険な技をやりやがって」と。
藤波 エグい角度で落としたんだから、それは誰も口をきいてくれないよね。
棚橋 怖え......。アメリカのそうそうたるスターたちから総スカンって最高に怖い話ですね。
藤波 控室が変な空気で、ただただ冷たい視線だけがあってさ。いたたまれなくなってオレはタオルだけ持って廊下に出たら、新間さんや東京スポーツの櫻井康雄さんとかテレビ朝日のスタッフとか、日本から来ているスタッフだけが「よかったよ!」って寄ってきて。
── これぞ昭和の新日本プロレス(笑)。
棚橋 日米間の温度差がすごかった。
藤波 まったく人の気も知らないで(笑)。
棚橋 いやぁ~、これは初めて聞くエピソードでした。
【「何かやれよ」は魔法の言葉】
藤波 ドラゴン・スープレックスをやったのはあの時が初めてで、それで日本に帰ってきて、何試合目かに今度はドラゴン・ロケットをやったんだよ。
棚橋 ドラゴン・ロケットもかっこよかった。
藤波 あれなんかもオレはやったことがなかったからね。当時、場外に飛ぶっていうのはメキシコでも2、3人いたくらいかな? それを見てオレは「こいつらはバカか!」と思ったもん。それくらいすごい距離を飛ぶわけ。会場も向こうは闘牛場だから、場外にマットを敷いてないしね。
棚橋 木の板が置いてあったりとか、そのまま土とかですよね。
藤波 石ころがいっぱいあるところでビョーンと飛ぶわけだから狂ってると思った。でも、また日本に帰ったら新間さんが「いいか、何かやれよ」と言うわけ。
棚橋 絶えず「何かやれよ」と。
藤波 だからオレは夢中で場外に飛んだね。
棚橋 「何かやれよ」と言われたことでドラゴン・スープレックスやドラゴン・ロケットの扉が開いた。じゃあ、これからは僕も若い選手に発破をかける時は「何かやれよ」と言うようにします(笑)。
藤波 でも本当にそれは大事よ。それで選手も意識が高くなる。「今のままじゃいけないんだな」っていう気持ちになるからね。
棚橋 常に「自分はどうあるべきで、何をやればいいんだろう?」と考えるきっかけになりますもんね。
── 「これをやれ」と言われなかったのがよかったのかもしれないですね。
棚橋 具体的な指示がないわけですからね。
藤波 「これをやれ」っていうのは、新間さんもオレらが普段どんな練習をして、何を習っているのかはまったく知らないから言えないんだよね(笑)。
棚橋 「何かやれよ」。今日はキラーワードを手に入れました。
── 棚橋さんには「おまえ、今日は何かやれよ」と言ってくるような存在の人はいなかったんですか?
棚橋 いないですね。僕は全部自分で考えて、自分で行動してという感じだったので。
藤波 「何かやれ」って言われたら、それはみんなそれぞれ自分で考えるよね。「何をやろうかな」って。
棚橋 いやぁ~、とても面白い話ですねぇ。
つづく>>
棚橋弘至(たなはし・ひろし)/1976年11月13日生まれ。岐阜県出身。大学時代からレスリングを始め、98年2月に新日本プロレスの入門テストに合格。99年に立命館大学を卒業し、新日本へ入門。同年10月10日、後楽園ホールにおける真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2006年7月17日、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制して第45代王座に輝く。09年、プロレス大賞を受賞。11年1月4日、小島聡を破り、第56代IWGPヘビー級王者となり、そこから新記録となる11度の防衛に成功した。23年12月23日に新日本プロレスの代表取締役社長に就任。26年1月4日の東京ドーム大会で引退する
藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)/1953年12月28日生まれ。大分県出身。70年6月、16歳で日本プロレスに入門し、翌71年5月9日デビュー。72年3月、新日本プロレス旗揚げ戦の第1試合に出場。同年12月に開催された第1回カール・ゴッチ杯で優勝し、75年6月に海外遠征へ出発。カール・ゴッチのもとで修行を積み、 78年1月にWWWFジュニアヘビー級王座を獲得した。81年末にヘビー級転向を宣言。長州力との戦いは「名勝負数え唄」と呼ばれファンを魅了。99年6月からは5年間に渡り新日本プロレスの代表取締役社長を務めた。06年6月に新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げ。 08年より団体名を『ドラディション』へと変更した