Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第13回】レオナルド
鹿島アントラーズ

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。

Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第13回は、現役バリバリのブラジル代表として鹿島アントラーズでプレーしたレオナルドを紹介する。自身が所属した間にタイトルをつかむことはできなかったものの、「貴公子」と呼ばれた男は、鹿島はもちろんJリーグの歴史に強烈な足跡を残した。

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【Jリーグ】「貴公子」レオナルド ブラジル代表のレギュラーが...の画像はこちら >>
 1994年から1995年にかけてのJリーグは、セレソン・ブラジレイラことブラジル代表選手が続々と来日したタイミングである。

 1995年8月に国立競技場で行なわれた日本代表対ブラジル代表の試合では、GKジルマール(セレッソ大阪)、右SBジョルジーニョ(鹿島アントラーズ)、CBロナウド(清水エスパルス)、MFドゥンガ(ジュビロ磐田)、MFセザール・サンパイオ、MFジーニョ(いずれも横浜フリューゲルス)、MFレオナルドの7人が、Jリーガーとして出場している。

 その先駆けが、レオナルドである。

 Jリーグ移籍は清水のロナウドのほうが早かったが、1994年のアメリカワールドカップで彼は控えCBだった。それに対してレオナルドは、左サイドバックのレギュラーとしてアメリカワールドカップに出場していた。

 決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦で退場処分にならなければ──相手選手をふりほどこうとした手が、顔面にバッチリ入ってしまった──レオナルドはレギュラーとして決勝戦までピッチに立っていたはずである。

【ジーコはとても大きな存在】

 クラブでは攻撃的MFとしてプレーするこのレフティには、ワールドカップ終了のタイミングでバルセロナやミランといったビッグクラブが獲得に乗り出したと言われる。ブラジル代表のチームメイトでは、控えの右サイドバックだったカフー(サンパウロ→レアル・サラゴサ)や17歳の怪物ロナウド(クルゼイロ→PSV)が大会後にヨーロッパのクラブへ移籍している。

 当時のJリーグ各クラブは、今より高額の年俸を用意することができた。そうだとしても、世界チャンピオンの一員となったレオナルドには、Jリーグより華やかでレベルの高い舞台に立てる可能性があった。

 これからキャリアのピークを迎えようとしている24歳は、なぜJリーグへやってきたのか。来日直後の記者会見で、彼は「ジーコの存在」を理由に挙げた。

「ジーコから『私はもう引退するから、鹿島でプレーしてくれないか』と言われて、すぐに行きますと答えました。僕は17歳の時に、フラメンゴのユースチームからジーコの推薦でトップチームへ引き上げられたんです。

 それについての感謝の気持ちがありますし、僕らの世代にとってのジーコは、とても、とても、とても大きな存在です。そのジーコから声をかけられたんですから、断る理由などあるはずがないのです」

 Jリーグデビューは1994年8月のヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)戦で、この試合で初ゴールも決めている。「貴公子」と呼ばれる男はルックスも抜群で、メディア対応も丁寧だった。

 雑誌などの単独インタビューでは、写真撮影でポーズをお願いする。カメラのファインダーに目線をもらったり、ちょっと遠くを見つめてもらったりするのだが、彼はどんなリクエストにも応えてくれた。サービス精神を発揮するというよりも、彼にとってはそれが自然な印象だった。

 ピッチ上ではスペクタクルだった。Jリーグにおける代名詞的プレーとして記憶される1995年11月1日の横浜フリューゲルス戦におけるゴール──ペナルティエリア内でリフティングをして4人の選手を翻弄した一撃は、テクニカルな選手としてのイメージを強く植えつけたが、技術レベルの高いシュートだけでなく、パワフルな一撃も打ち込むことができた。

【鹿島アントラーズ在籍は2年間】

 すべてのプレーのベースとなっているのは、ファーストタッチである。グラウンダーのパスでも浮き球でも、トラップしたボールが暴れることはないのだ。「ピタッ」という音が聞こえてくるようなファーストタッチが、芸術的なプレーの出発点だった。

 アウトサイドの華麗なパス、ヒールでの意外性に富むパスで、観衆を魅了した印象も強い。それでいて、インサイドでもビシッとパスを通す。彼のプレーを見るたびに、基本技術の重要性に思いが及んだ。

 加入初年度の1994年はシーズン後半戦からピッチに立ち、9試合出場で7ゴールをマークした。翌1995年は全52試合の半分ほどにあたる28試合の出場にとどまった。ブラジル代表としてコパ・アメリカに出場したり、右ひざの痛みに悩まされたりしたことで、シーズンを通して稼働することができなかった。

 それでも、チームトップの17ゴールを記録している。セレソンの同僚のジョルジーニョとストライカーのマジーニョのブラジル人トライアングルは、アントラーズの歴史のなかでも最高クラスと言って差し支えないはずだ。

 その3人が揃って出場した1996年5月の横浜フリューゲルス戦は、Jリーグ黎明期の歴史に残るベストマッチである。

 フリューゲルスも1994年アメリカワールドカップ優勝メンバーの司令塔ジーニョ、それにストライカーのエバイールがスタメンに名を連ねていた(セザール・サンパイオは欠場)。

レオナルドとジーニョが背番号10を背負い、両チームのブラジル代表と日本代表クラスの個がぶつかり合う激闘に、45,000人を超える観衆が酔いしれた。

 スコアは1-1で激しい点の取り合いではなかったものの、行き詰まるような攻防は見ごたえ十分だった。21世紀の今でも、十分に観戦に堪えうると思う。

 レオナルドは1996年夏に鹿島を離れ、パリ・サンジェルマンに移籍した。ブラジル代表としてのキャリアを考えれば、個人的にはJリーグに2年間を捧げてくれただけでも十分だったと思う。

【日本サッカーの発展に大きく貢献】

 ワールドカップのプレ大会の位置づけだった1997年のトゥルノワ・ドゥ・フランスや1998年のフランスワールドカップ、あるいはパリ・サンジェルマンやその後所属したミランのゲームで、レオナルドの姿をたびたび見かけた。ミックスゾーンで話す彼の近くに立つだけだったから、「取材をした」というよりは「見かけた」に近い。

 その多くの場面で、彼はこちらに微笑みかけてくれた。僕を含めた日本人に、親愛の情を示してくれた。そのたびに、鹿島へやってきた時に話した言葉を思い返した。

「日本のサッカーが世界へ羽ばたこうとする今この時に、自分のような立場の選手がここ日本でプレーすることには、大きな意味があると思っています。自分は日本でも成長できると思っているし、自分がしっかりプレーすることで日本サッカーのレベルも上がる。

そういう責任があると感じています」

 日本代表が国際舞台で結果を残すと、僕はレオナルドの言葉を思い返す。彼の責任感や使命感は、間違いなく日本サッカーを発展させてくれた、と。

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