連載第72回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
サッカー日本代表のブラジル戦の3日後、フットサル日本代表のブラジル代表戦が行なわれた。
【フットサルブラジル戦は日本の連敗】
サッカー日本代表がブラジル代表に大逆転勝ちを収めて世界を驚かせた3日後の10月17日、僕は再び日本対ブラジルの試合を観戦した。フットサルの国際親善試合。舞台は静岡県富士市にある北里アリーナ富士である(今年春に開場したばかりの最新式のアリーナだが、市街地から離れているのでアクセスは悪かった)。
さて、フットサル界のブラジルと言えば、まさに世界の王者。昨年ウズベキスタンで行なわれたフットサルW杯でも、決勝でアルゼンチンを下して優勝。過去10回の大会中6度も優勝しているという、まさに"絶対王者"的存在だ。そして、今回の親善試合でも日本代表に2連勝して、その強さをまざまざと見せつけた。
とくに、僕が観戦に行った第1戦の前半はまさに圧巻のパフォーマンスだった。
ボール扱いのテクニックがうまいのは当然として、フィジカルコンタクトの強度が高く、また競り合いの場面で相手の前に体をねじ込むことがうまいなど、1対1の競り合いでボールを失うことがない。そのうえ、コンビネーションという意味でも日本をはるかに上回っていた。
前半の日本はボールを持っている時でも、ブラジルの"圧"を感じたのだろう。なかなかボールを前に動かすことができず、ブラジル選手たちが構えている前でボールを回すだけになってしまった。
しかし、後半に入ると日本チームが勇気を持って前からプレッシャーをかけ、また、積極的に前線にボールを入れることで立て直しに成功。甲斐稜人や清水和也がブラジルゴールを脅かす場面もあり、一瞬サッカー日本代表の逆転劇を思い出させたが、逆に後半にも一瞬のスキを突かれて2点を加えられ、0対4で敗れてしまった。
19日に行なわれた第2戦でも、日本は前半の7分までに3ゴールを失った。その後、前半のうちに新井裕生が1点を返し、さらに試合終了間際に再び新井がバイシクルシュートを決めて1点差にしたが、反撃もここまで。日本の連敗で終わった。
前半は、ブラジルに押しこまれ、失点してからハイプレスをかけて形勢を挽回したあたりはサッカー日本代表の試合にも似ていたが、試合をひっくり返すだけの力はなかったようだ。
ブラジル選手たちはあらゆる意味で日本を上回っていたが、とくにフィジカル能力の高さ(その強さの使い方も含めて)には大きな差があった。また、フェイントひとつとっても切り返しの速さや大きさに違いがあったし、パスのスピードも速く、プレーのスケール感が違って見えた。
【サッカーとフットサルが融合するブラジル】
ブラジルでは子どもたちはフットサルとサッカーの両方を経験し、かなり高い年齢までふたつのフットボールをプレーする場合が多いと聞いた。
プレーのスケール感の違いは、そんな11人制のサッカーの競技経験によるものなのかもしれない。
一方、ブラジルのサッカー選手の多くもフットサルを経験している。
たとえば、先日のサッカーの日本との対戦で、ブラジルは前半のうちに2ゴールを決めた。いずれもバイタルエリアあたりで2、3人がローテーションしながら短いパスを回し、タイミングを見てそのうちのひとりが裏(つまりボックス内)に走り込み、そこに正確なパスを合わす形だった。
見ていて、どこかフットサル的な匂いがした。
日本でも、サッカーとフットサルの両方を(高いレベルで)経験した選手が現われたら、ブラジルとの距離は縮まるかもしれない。
いずれにしても、ブラジルから学ぶことは多そうだ。日本のフットサルはこれまでもずっとブラジルに学んできたのだが......。
たとえば、僕が「室内サッカー」(まだ、「フットサル」としての統一ルールが確立されていない時代)を初めて見たのも、1982年に東京の日本武道館で行なわれた「国際サロンフットボール大会」。ブラジル・サンパウロの名門パルメイラスを招いての国際試合だった。
室内サッカーは1936年に「インドアフットボール」としてウルグアイで始まり、その後ブラジルで「フッチボール・ジ・サロン」として発展したと言われている。その他、欧州でも室内サッカーは行なわれていたが、使用するボールも、ルールや名称も各国でばらばらだった。
その後、「国際連盟」が結成されたが、FIFAと間でのさまざまな確執があり、「フットサル」という名称で統一されてFIFA傘下で世界選手権(現フットサルW杯)が開催されるようになったのは1990年代になってからのことだった。
日本では、ブラジルで「フッチボール・ジ・サロン」に慣れ親しんだ海老沢亮神父が帰国した後、北海道YMCA主事となって室内サッカーを取り入れ、その後札幌大学の柴田昂先生が引き継ぐ形でブラジル人留学生を招くなどして盛んになった。
冬の間、屋外でサッカーをするのが困難な札幌では、フットサルは冬季のスポーツとしてうってつけだったのだ。
【43年前、武道館での試合】
1977年には日本サッカー協会傘下に「日本ミニサッカー連盟」(現在のフットサル連盟の前身)が結成された。そして、1981年には普及のためにブラジル・チャンピオンの「FCバネスパ」を招待して試合を行ない、そして翌1982年には名門パルメイラスを招待して9試合を行なった。そして、その一環として東京の日本武道館で日本選抜との試合が開催された。
日本武道館は東京五輪(1964年)の直前になって建設され、初めて五輪の正式種目となった柔道の会場として使用された。
その後も柔道や剣道などの武道大会の開場として使われていたが、1966年にはあのザ・ビートルズの来日公演が行なわれ、その後はコンサート会場としても有名になった。まだ、「ミニサッカー」がまったく普及していない(いや、サッカー自体がまだまだマイナーな存在だった時代)に、よくもそんな大きな会場を確保したものである。
アデマール・マリーニョはベロオリゾンテ出身のサッカー選手で、1975年に札幌大学の留学生として来日。同大学サッカー部で活躍すると同時に「室内サッカー」もプレー。その後、日本サッカーリーグ(JSL)のフジタ工業(湘南ベルマーレンの前身)や日産自動車(横浜F・マリノスの前身)で長く活躍。引退後は解説者などとして活躍すると同時に、フットサル日本代表の監督も務めた。
1982年に来日した日本選抜には、そんなブラジル人プレーヤーたちとともに、なんと元ブラジル代表の「10番」ロベルト・リベリーノ(1970年のW杯優勝時のメンバーのひとり)がゲストプレーヤーとして加わっていた。
僕がそれまでまったく馴染みのなかった「ミニサッカー」を見に日本武道館まで行ったのも、たぶん「リベリーノ」の名前に惹かれたからだったのだろう。
試合内容などはむろん覚えていないが、普及のための模範試合でもあり、こうした名手たちの足技を楽しむイベントだったことは間違いない。ルール的にも今のフットサルのような激しいぶつかり合いは想定されていなかった。
【激しくも繊細 フットサルの将来性】
それから40年以上が経過して、フットサルを巡る環境も大きく変わった。
日本ではJリーグ発足後にサッカー人気が高まり、2002年日韓W杯を通じて日本社会にサッカー文化が浸透していった。また競技レベルも着実に上昇してきた。
そして、サッカー人気拡大に伴ってフットサルのプレー人口も急激に増加。2007年には初めての全国リーグとしてFリーグがスタート。当初かなりの観客を集めたものだったが、その後は浮き沈みも多いようだ。
そして、フットサルは時代とともにより競技性が強く、インテンシティの高さを競う激しいスポーツに変貌してきた。
残念ながら、フットサルのプレー人口は頭打ちのようで、またスペクテーター・スポーツ(観るスポーツ)としてはまだ十分に認知されていないのが実情だ。
そんな時に、ブラジル代表の激しくも繊細なフットサルを見ることができた。たしかに、これだけの試合をしていれば、観るスポーツとしても十分に見ごたえがあるし、ブラジルという国でこの室内スポーツの人気が高いのも納得できる。
北里アリーナでブラジル代表のプレーを見ていて、あらためてこのスポーツの将来の可能性を感じたというわけである。
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