後編:24歳・大山盛一郎の2024-25日米プロ野球挑戦記
沖縄の興南高校卒業後、単身渡米し、短大から4大学へ編入してプレーヤーとして研鑽を積んできた大山盛一郎。アメリカで大学を卒業後、日米を通してプロリーグのトップステージを目指すなか、2025年NPBドラフトを目指すはずだったが、シーズン開幕直前に再び挑戦の場を日本からアメリカに移すことを決意した。
現在24歳の大山は、限られた野球人生のすべてを懸けるべく、米独立リーグから挑戦をスタートさせた。
前編〉〉〉NPBドラフトを目指すはずがシアトル・マリナーズとマイナー契約――
【独立リーグからマリナーズとマイナー契約へ】
くふうハヤテベンチャーズ静岡に別れを告げて、大山盛一郎はアメリカに渡った。
とはいうものの、決まっていたのはアリゾナ州で米独立リーグのトライアウトを受けるということだけで、あとは白紙。アメリカには観光者が利用するESTA(ビザなしでアメリカに入国する場合に、取得する必要がある電子渡航認証システム)で入国した。コネクションも何もなかった大山に到着後届いた唯一の情報は、独立リーグではアメリカでビザが下りないという意気消沈するものだった。
だが、望みはゼロではなかった。独立リーグのひとつ、フロンティアリーグにはカナダに3チーム(オタワ・タイタンズ、ケベック・キャピタルズ、トロワ=リビエール・エーグルス)があると聞いた。アメリカがダメならカナダでビザを取得すればいい。そうなれば、あとは持ち味の行動力で勝負。
「トライアウトで『日本から来てチームを探しているが、なにかコネクションはないですか?』と全員に挨拶しに行って、たまたまそのなかのひとりがオタワ・タイタンズの監督とつなげてくれて、次の日にサインするって言われました」
もちろんプレー動画や大学時代の成績などを見てもらって決まったものだが、あっという間にチャンスを掴んだ。
独立リーグでの生活は、決して楽なものではなかった。オタワで滞在したホテル費はチームから支払われ、球場もホテルの駐車場とつながっており便利だったが、遠征ではバスで15時間かかる場所もあるなど、移動は過酷だった。報酬もアメリカドルで月1200ドル(約18万円)。
ところが約3週間経った頃、チームメイトと散髪屋にいた時に監督から「すぐに球場に戻って来い」と電話が入った。「まだ12試合ぐらいしかプレーしていませんでしたし、大した成績は残していなかった」と言う大山の頭に浮かんだのは、「クビ」という二文字だった。
独立リーグは選手の入れ替えが激しく、その週もすでに3人が解雇されていた。それだけに監督に会って最初に尋ねたのは、「自分は解雇なのか?」ということ。すると監督は「そうだ」と答えたあとニヤッとして「シアトル(マリナーズ)がサインしたいと言っているが、どうする?」と聞いてきた。迷いはなかった。「はい、します」と即答した。
何の手がかりもないまま渡米し、2カ月あまりでメジャーリーグ傘下のマイナーにたどり着いた。ただ、チームに合流するために必要なビザがなかなか下りず、ESTAの期限が近づいた。アメリカをいったん出国しなければならなくなった大山は、マリナーズのアカデミーがあるドミニカ共和国に渡った。
そしてカリブ海に浮かぶこの島で、自らがどれだけ恵まれた環境で野球ができているかを思い知ることになった。
【ドミニカ共和国から再渡米、そして2Aデビュー】
移動の車中から見える風景は、裸足で歩いている人やぼろ屋、野良犬と見慣れないもの。他車の運転も乱暴なものだった。
アカデミーでは16~19歳ぐらいの青年たちが、決して裕福・安全とはいえない国々からやってきて、住み込みでトレーニングしていた。まず驚いたのは、彼らのレベルの高さだった。
「高校生で99マイル(158.4キロ)投げる選手は、そういないですよ」と大山も興奮した様子。「全然年下なんですけど、みんな人生かかっているという感じがすぐに見えました。必死でやっていました。みんなで刺激し合いながら、『これで飯食うぞ』という覚悟も感じられました。自分も頑張らないといけないと思いました」。自らも覚悟ができた。
ドミニカ共和国に来て、約2週間。
大山の"波乱の2024-25年物語"はまだ続く。
ブリッジリーグも終了して母校カリフォルニア大アーバイン校(UCI)のあるカリフォルニア州アーバイン市に戻り、到着後、すぐに日系スーパーに出向いて食事をしていた時だ。マリナーズ関係者から電話を受けた。オタワの時と同じように「クビ?」の2文字が浮かんだが、その内容は、ケガ人が出て内野手が足りなくなった2Aのアーカンソー・トラベラーズにすぐに合流してほしいということだった。
急いで食事を済ませて支度をし、その2時間後には直近の空港に到着。遠征先のオ クラホマ州タルサに向かい、トラベラーズにとってシーズン最後の2試合に備えた。最初の試合は、結局出番はなかった。次の試合でもスターティング・ラインナップに名前はなかったが、開始2時間ほど前に先発だと言われて2Aデビューを果たした。
「1イニングから、全集中してやりました。この試合に懸けよう、この1試合で自分にできることをすべて見せようと思ってやりました。異様に落ち着いていました」
9番セカンドで出場した大山は、4打数2安打、1死球1盗塁1得点でチームの勝利に貢献した。
正直、2Aでも「いけるなという自信はあります」と手応えを感じた。
「でも来年どのレベルでスタートするかはわからない。それは自分ではコントロールできないので、どこに行っても自分のベストを尽くして、後悔のないように 1試合 1試合やっていきたい。今はメジャーというよりも、生きるか死ぬかなので」
実は大山の名前、盛一郎(じょういちろう)は、今年アメリカの野球殿堂入りを果たしたイチローさんから両親がつけたもので、「最初に見たメジャーリーグの球団はマリナーズですし、初めて買ったユニフォームもマリナーズ。最初に買ったバットもイチローさんのモデルバット」だと言う。それだけにマリナーズで上に上がってイチローさんに挨拶したいという思いもモチベーションとなっている。
【どう転がっても後悔ないようにしたい】
大山は、波乱の1年を振り返る。
「挫折するようなことがいっぱいあって、思うようにいかないことが多かったけど、逆にそれも含めて考え方が変わった。困難があればあるほど後から振り返った時に面白いストーリーになる。
沖縄・興南高校で迎えた3年生の時、それまでの努力が実ってレギュラーとなり、背番号5をつけて甲子園の地を踏んだ。しかし沖縄大会の準決勝前日あたりから肘が思うように動かなくなり、以降不出場のまま最後の夏を終えている。大学からの勧誘もなく、大学のセレクションを受けようと思ったら、すでに終わっていた。
それでも野球をやめようとは思わなかった。そんななか、たまたま足を運んだショッピングモールの本屋で、立ち読みした雑誌に掲載されていたアメリカ留学の広告を見て、「これだ!」と思い、すぐに調べて短大留学を決め、そして現在に至る。
アメリカに来た当初は、英語もわからなかったが、そんなことはお構いなしに自ら進んでチームメイトらとつるんだ。それで英会話力が上達した。
その行動力が大山にチャンスをもたらし、挫折を経験しても努力し続ける力を育ませた。
大山の「面白い」人生は、これからどんな展開を見せていくのだろうか?
「最後はメジャーに行くのがもちろん自分のゴールです。でも、どう転がっても後悔ないようにしたいなと思っています」
新たな1ページはNPBドラフトではなく、マリナーズのスプリングトレーニングキャンプに設定されている。










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