大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから~平尾奎太(全4回/4回目)

 指名漏れの憂き目にあった翌年、平尾奎太は25歳となり、Honda鈴鹿の投手陣最年長に。4年目からはポジションも先発からリリーフとなった。

 社会人野球は基本的に先発の軸は二枚で構成され、都市対抗や日本選手権といった主要大会をそのふたりで回すことが多い。

 この頃の平尾は、主要大会ではロングリリーフを含む中継ぎとして起用され、それ以外の地方大会やオープン戦では3~4イニングの先発を任されていた。かつてのようなエース格ではなくとも、チームにとって欠かせない投手であり続けた。

大阪桐蔭「藤浪世代」の平尾奎太が語る新たな出発 「ドラフトに...の画像はこちら >>

【コーチの打診を受けるも...】

 社会人7年目となった一昨年の6月にも話を聞く機会があった。平尾はちょうど、進退について考える時期に差しかかっており、幼馴染の水本弦が5年で社会人野球を引退した時の話になった。

 ある日の練習試合で顔を合わせた時、水本は「オレ、今年でやめるわ」と、まるで今日の天気を話すような調子で口にしたという。そして、淡々とその決断の理由を語った。

「プロを目指して頑張っている後輩を見たり、日本一になったことのないヤツが『日本一になりたい』って必死にやってる姿を見たら、もうオレにはあのモチベーションはないなって思って。プロの可能性もなくなったし、高校でも大学でも日本一になった。じゃあ、もうやる理由はないわ、って」

 その言葉を聞きながら、平尾は「高校、大学とやりきれなかった自分には、まだ戦うモチベーションが残っている」と感じた。「もっと投げたい。勝負したい。まだ成長できる。

上を目指せる」と、いくつもの思いがあふれてきた。

 しかし現実は、平尾の思いとは別のところで静かに進んでいた。

 水本の話を聞いてからしばらくして、コーチの打診を受けた。平尾は「西谷(浩一)先生にだけは、(意見を)聞きたいなと思って......」と電話をした。「どう思いますか?」と尋ねる平尾に、「オレは決められへんけど」と言ってこう続けた。

「自分で『まだ現役をやれる』『1年でも長くやりたい』って気持ちがあるんなら、選手一本でやらせてください、って言ったらええんとちゃうか。その代わり、来年1年でクビになるかもしれん。そうなったら、それはもうタイミングの問題や。そこでコーチの話はもうなくなると思うけどな」

【現役続行決断で芽生えた2つの目標】

 どこかで望んでいた答えを信頼する西谷からもらい、迷いは消えた。そして同時に、新たな目標が生まれた。好きな野球を、少しでも長く続けたいと。

「厳しいですけど、藤浪(晋太郎)、澤田(圭佑)のふたりより長く現役をやりたいという気持ちが湧いてきたのと、もうひとつは社会人で11年やった父よりも長くやりたいと。そこが今のモチベーションになっています」

 平尾が野球人生の岐路に立っていた頃、藤浪は制球難に苦しみながら活路を求めて海を渡り、澤田もオリックスでの自由契約を経て、ロッテの育成選手として再出発を果たしていた。

 ふたりに負けない。父を超える──。そのためにも、もう一度前を向こう。この話を聞いたのは、一昨年の都市対抗予選で敗退してしばらく経った頃だったが、前向きな言葉が次々とこぼれてきた。

「今年は春先から144キロが出たりして、4年目、5年目あたりの頃よりもボール自体はよくなっているんです。リリーフって、明確な数字を残さないと整理対象になりやすいポジションなので、防御率と奪三振率にはこだわっていました。

 昨年末に監督と面談した時も、『リリーフでやる以上、奪三振率は9を割らない。防御率も1点台をキープします』って宣言して。いま奪三振率は9.75、公式戦だけなら10.80でチームトップ。防御率も1点台で来ているので、目標はちゃんと達成できているんです。だから、5月から始まる都市対抗予選は本当に楽しみだったんですけど......」

 しかし、チームは1勝したあと3連敗で予選敗退。平尾に登板の機会が巡ってくることはなく、戦いは静かに幕を閉じた。

 結果的に現役最後のシーズンとなった8年目の昨年は、公式戦での登板がわずか4試合。夏に腰を痛めたこともあったが、起用のされ方に、ベンチからの自身への評価が伝わってきた。マウンドを降りる時が、確実に近づいていた。

「社会人は試合数も少ないので、若手を育てるためには、どうしても上の選手を外していかないといけないんです。ウチのチームは新人をけっこう獲ることで知られていて、前の年は左投手を獲ってなかったんですけど、最後の年は練習参加の選手を見ていると左が多くて。 『あっ、これは左を獲る気やな』って。チームには左が4人いたので、たぶんふたり切られて、ふたり獲るなと思っていたら、そのとおりでした」

【野球を引退し社業に専念】

 予想は的中し、切られるふたりのうちのひとりに自身が入った。

「面談の時に『今年限りで』と言われるんですけど、だいたい察しはつくんです。面談の時間割の並びを見ていたら、僕らと同じくらいの歳の選手が先の時間に固まっていて。『ああ、そういうことか』って」

 少しして西谷へ電話を入れると、労いの言葉が続いた。この時のやりとりは、西谷もはっきり覚えていた。

「僕はよく『30歳まで現役でできたら大したもんや』って子どもたちに言うんです。だから平尾に、『西谷先生が言う30までできました』って言われてね。

高校時代のことを思えば、ここまでやれるとは思っていなかったので、『ようやった』と伝えました。『社会人は8年です』って言うから、『お父さんは何年や?』って聞いたら、『11年です。父を超えたかったんですが......』と。それを聞いて、『父は偉大ということや』と最後に言ったのを覚えています。ここからは、きっと仕事でも頑張ってくれると思います」

 野球のない暮らしも、まもなく1年となる。現役時代のシーズン中は、朝8時から正午まで社業に就き、午後2時から練習というサイクルだった。

 今は朝からフルタイム勤務。先輩に付きながら仕事を覚え、この4月からは2つ目の部署に異動した。『四輪生産本部 生産統括部 鈴鹿製作所 完成車保証部 製品技術科』。部署名を眺めるだけで、「世界のホンダ」を実感する。

「今の時代、野球でとってくれても、グループ会社採用が多いと思うんですけど、ホンダは正社員としての本社採用なんです。そこから鈴鹿製作所に出向という形になります。

中に入って感じるのは、福利厚生や手当が本当に充実していてありがたいということ。そして、これだけの大きな会社だからこそ、いろんな仕事があるということです。僕らの周りを見ていると、独立して個人事業主としてやっていくのもひとつの道ですけど、縁があって入れたこの大企業のありがたさを感じながら、会社のなかでいろんなことに挑戦していきたい。営業もしたいし、海外でも働いてみたい。野球が終わった今、ここからがまた楽しみなんです」

 野球一筋で生きてきた選手たちが、現役を終えたあとに生きづらさを感じるケースは少なくない。しかし、平尾の姿からは、その種の心配はまったく伝わってこない。将来的には、自身の病の経験を生かし、それを仕事にもつなげていきたい──そんな静かな思いを胸に、彼は新たな人生を歩み始めている。

【突然見舞いに来てくれた岩田稔】

 大阪桐蔭時代、病を発症してどん底の気分に落ちていた頃のこと。病室に、大阪桐蔭OBで当時阪神タイガースの主戦投手だった岩田稔が、突然見舞いに訪れた。西谷が岩田に「時間があったら、励ましに行ってやってくれ」と電話を入れたのがきっかけだったが、岩田はその連絡を受けたその夜のうちに病室へ駆けつけてくれた。

「病院の大部屋で、親と一緒にテレビで阪神戦を見ていたんです。そしたら突然カーテンが開いて、『岩田です』って。

『えっ......』って、ほんと、びっくりしました。サイン入りのグラブまで持ってきてくださって、そこからいろいろ話もしてもらって。さらに、その3日後の試合で岩田さんが完封して、それを見てまたしびれました。

 岩田さんが糖尿病に関する啓蒙活動や、子どもたちの支援活動をされていることも知って、自分ももしプロ野球選手になれたら、経験を生かしてそういう活動をしたいと思っていたんです。プロにはなれなかったですが、これから仕事をしていくなかで、またそうした活動に携わっていけたらと思っています」

 社内には、社会貢献につながる部署などもあり、平尾のなかでは未来図がいくつも広がっている。

「そのためにも、まずは一つひとつ仕事を覚えていかないと、です」

 そう言って笑う表情に、次のステージを歩み始めた男の確かな充実がにじんでいた。

 落ち着いた語り口のなかに、聡明さを感じさせる思考がある。あえて「大阪桐蔭っぽくないね」と水を向けると、「昔から言われます」と笑った。「勉強もできそうで......」と続けると、「できます!」と即答。

「大阪桐蔭野球部のなかでの"できます"ですけど(笑)」

 中学時代は、学年約300人のなかで3位の成績を取ったこともある。塾に通いながらも、大阪桐蔭での活躍、そしてプロの夢を追いかける、そんな野球少年だった。

 もし病に見舞われていなければ。もしプロに進んでいたら。振り返ると、いくつもの"もし"の先につながった人生を、平尾は堅実に歩んでいる。

「ここからいろんなことに挑戦して『ドラフトにかからんほうがよかった』と言える人生を目指します」

 大阪桐蔭の春夏連覇のメンバーとしての誇りを胸に、平尾は社会人として新たな一歩を踏み出した。

文中敬称略

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