錦織圭という奇跡【第2回】
松岡修造の視点(2)

◆松岡修造の視点(1)>>「錦織圭選手の体に入ってみたい!」」

「僕が真剣に『世界』を意識したのは、18歳の時。遅すぎた」──。

 思えばその悔恨こそが、「日本のジュニアたちには、低年齢から世界を経験させなければ」という焦燥にも似た、情熱の熱源だった。

 ATPシングルス最高位46位。ATPツアーシングルス優勝1度、準優勝2度。1990年代に記録したこれらの記録はいずれも、当時の『日本初』の快挙だ。松岡修造は日本男子テニスのパイオニアであり、後進たちを世界に導いた、水先案内人でもある。

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錦織圭は「新しいタイプの日本人」 松岡修造いわく「松山英樹さ...の画像はこちら >>
 若き日の錦織圭が、拠点とするアメリカのIMGテニスアカデミーで『プロジェクト45』と呼ばれていたのは、よく知られたエピソードだった。

 45──。それはすなわち、松岡氏のATPシングルス最高位(46位)を超えるという目標設定。錦織には、追うべき明瞭な背中があった。

 だが、松岡氏の前を歩む者はなく、ロールモデルと呼べる存在もいなかった。

「僕が現役だった頃、日本人男子が『世界ランキング100位に入る』こと自体、遠い夢のような話でした」

 半世紀近く前の日を、松岡氏が回想する。

 もっとも、それは必ずしも、当時の日本でテニスがマイナーだったことを意味するわけではない。

いや、むしろ「ブーム」と言えるほどの隆盛を誇り、ゆえに日本国内で十分にプロとして賞金を稼ぐことができた。皮肉にもその状況が、世界への扉を閉ざしてしまったという......。

「僕が若い頃は、日本のトップ選手たちにも、世界を目指そうという感覚がなかった。その一番の理由は、日本国内に多くの賞金大会があり、十分に生活ができたから。そういう時代だったんです。

 ちょうど僕が小学校の時に、初めて当時の世界トップ選手のジミー・コナーズ(アメリカ)が日本にやってきた。海外の選手を目の前で見る機会があり、グランドスラムの存在を知ることができた。それでも、自分が世界でプレーをするイメージは、まったく抱けなかったです」

【世界に出て一番苦労したこと】

 そんな松岡氏に大きな転機が、17歳の時に訪れる。全仏オープンのジュニア部門に出場した氏のプレーを、名コーチの誉れ高いボブ・ブレットが見ていたのだ。それが契機となり、数カ月後に両者は日本で再会。その時、ブレット氏にかけられた「アメリカのホップマン・キャンプに行かないか?」のひと言に導かれ、松岡氏は海を渡った。

「この時に、本気で世界を目指そうとしました。ただ、恩師のボブ・ブレットさんに言われたのが、『修造、お前が本気で5年やれば、100位に入れる......かもしれない』──『Maybe』がつきました。

それだけ当時の日本人には、世界で戦うには高すぎる壁があったんです」

 その壁には「大きくふたつの要因がある」と松岡氏は言う。

「ひとつは、世界での経験不足。テニスでは、自分より強い相手と戦うことでしか見えない景色、学べない戦術やスピード感があります。日本にいては、それらを体験できません。

 もうひとつの壁は、日本人のメンタリティ。日本では学校でもコーチングでも、『言われたことをそのままやる』という受け身の姿勢が多すぎるように感じます。考える力、自分の意見を表現する力が育ちにくいし、僕自身、世界に出て一番苦労したのが、そこでした」

「正直、僕は遠回りしてきた」

 それが松岡氏の悔いであり、未来につなぐべき教訓。

 だからこそ氏は、引退直後から男子ジュニア強化プロジェクト『修造チャレンジ』を立ち上げた。今では広く知られている話だが、錦織圭も、その門下生。立ち上げから4年目に、「のちの世界4位」が参加した。

 錦織が世界ランキングトップ10入りを果たした2014年に、彼から「IMGアカデミーに移った直後から、ずっと純粋に世界1位を目指していた」の言葉を聞いた。その朴訥(ぼくとつ)な語り口を聞き、頭に浮かんだ「日本人の先駆者もいないなか、なぜそれが可能だと信じられたのか?」という率直な疑問を、尋ねたことがある。

 当時の錦織の答えは、「バカだったんでしょうね、いい意味で」。前例がないとか体格差があるということは、ほとんど意識しなかったと彼は言った。

【心理的な「溝」が存在しない】

 錦織少年の内に宿る愚直なまでの夢への思いを、松岡氏も直接指導に当たるなかで、感じていただろうか?

「それは、ありましたね」と、松岡氏が回想する。

「錦織選手が初めて修造チャレンジに参加した時、語った将来の目標は『全仏オープンで優勝する』ということでした。ただそれって、みんな言うんです。『世界1位になる』『夢はグランドスラム優勝』と」

 口にすることと、本気で信じることとの間には、かなり深い隔たりがある。ただその溝を、軽く飛び越えられる者がいるのも確か。いや、そもそも心理的な「溝」が存在しないのかもしれない。松岡氏が述懐する。

「僕は『グランドスラム優勝』という言葉を口にする時、『日本人は誰もやっていない』という考え方をしてしまう。でも、錦織選手に限らず、国などの枠にとらわれることなく、純粋に『あそこに到達すればいい』という考え方をできる日本人が出てきていると感じます。

 これはたとえば、僕が今までインタビューをしてきたアスリートのなかでは、ゴルフの松山英樹さんや、フィギュアスケート羽生結弦さんからも感じたことです。『最後のゆとり世代』に、そういう感覚の選手が比較的多い印象があります。

 もちろん皆が皆ではなく、特別な存在だとは思いますが、新しいタイプの日本人たち。海外のチャンピオンを『同じ人間』として捉らえられるのが、錦織選手たちなのだろうと思います。

 僕は海外の人たちを、同じ人間とは思えませんでした。やはり体格も違うし、テニスにまつわる環境や文化的背景も違う。そもそも英語を話している時点で、もう違う生き物と感じてしまった。そんな考え方は、『壁』ですよね。錦織選手には、その壁がなかったのだと思います」

 もちろん、錦織とて最初からそうだったわけではない。現に12歳の時に、初めて『修造チャレンジ・ジャパンオープンジュニアテニス選手権』に出た錦織は、大柄なオーストラリア選手のサーブから逃げていた。

 そんな姿勢は「絶対に変えなくてはいけない」と焦った松岡氏は、試合後の錦織を大声で叱った。のちに錦織は、「あの時の修造さんが一番怖かった」と述懐していたという。

【錦織圭という「実在する希望」】

 錦織が長く世界のトップ10の地位に座し、グランドスラムなどの大舞台でテニス界のスーパースターたちとしのぎを削ってきた事実は、日本人としての揺るぎない「前例」を作った。その意義がいかに大きいかを、松岡氏は次のように語る。

「日本選手にとって世界の壁は、今はドアの扉のように開けることができる。グランドスラム準優勝、世界ランキング4位の錦織圭という『実在する希望』が、目の前にいる。それを見て、今の若い選手たちは『可能性』ではなく『現実』として、世界に挑んでいるんです」

 錦織圭が切り開いた日本から世界の頂(いただき)への航路は、あとに続く者たちに知識として継承されるだろう。そしてさらにさかのぼれば、錦織に『実在する希望』として海路を示したのが松岡氏だということも揺るぎない事実だ。

 2008年2月──。アメリカ・フロリダ州のデルレイビーチ選手権で、錦織圭はATPツアータイトルを18歳3カ月で獲得する。くしくもそれは、松岡氏が初めて「世界を意識した」年齢であった。

(つづく)

◆松岡修造の視点(3)>>「気がつけばナダルやジョコビッチまでもが...」


【profile】
松岡修造(まつおか・しゅうぞう)
1967年11月6日生まれ、東京都出身。姉の影響で10歳から本格的にテニスを始め、中学2年で全国中学生選手権優勝。福岡・柳川高時代にインターハイ3冠を達成し、その後アメリカへ渡る。1986年にプロ転向し、1992年のソウルオープンで日本人初のATPツアーシングルス優勝。1995年のウインブルドンでは日本人62年ぶりのベスト8。

オリンピックにはソウル、バルセロナ、アトランタと3大会出場。1998年に30歳で現役を引退。現在は日本テニス協会理事兼強化育成副本部長を務めながらスポーツキャスターとして活躍。ランキング最高位シングルス46位。身長188cm。

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