かつて近鉄バファローズで"いてまえ打線"の中心選手として活躍した金村義明さんが、お笑い芸人・ますだおかだの岡田圭右さんを相手に、貧しいなかでも野球をあきらめなかった少年時代や、応援し続けてくれた母への思い、そして忘れられない高校3年生で初出場した春のセンバツについて振り返った。

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【憧れの報徳学園入学への険しい道のり】

岡田圭右(以下、岡田) 少年時代の野球の思い出は? 

金村義明(以下、金村) 少年野球のチームはあったけど、お金がかかるから入れてもらえなかった。父親が「お前は働け」と。

だから僕は、近所の子どもを集めて、3軒となりのおっちゃんに「試合の時だけ監督として来てくれ」と頼んで、チームを作ったんです。練習は僕が野球雑誌をボロボロになるまで読んで(研究して)、同級生にノックをしていました。

岡田 近所で野球チームに入ってへんヤツを集めて、急造のチームを作ったんですか。

金村 そう。冬はサッカーチームに変身する(笑)。冬は「俺は釜本邦茂や」言うて、「とにかく俺にボールを回せ」言うてました。

岡田 報徳学園(兵庫)への進学はいつから考えていたんですか?

金村 小学生でお母ちゃんの内職の手伝いをしている時に、テレビで報徳学園がセンバツ優勝したのを見て憧れました。

岡田 テレビでたまたま見た報徳学園に憧れて、お父ちゃんは「お前は働け」と言うけど、お母ちゃんは「報徳に行って野球しなさい」と言ってくれたんですよね。

金村 報徳学園は私学だから(お父さんは)入れてくれないだろうと思って、内職しているお母ちゃんの耳元で「お父ちゃんと離婚せえ」言うて(笑)。「俺がプロ野球に行って、(選手たちが住んでいる)高台に家を建てるから」って言っていました。親父は、ダンプカーの持ち込みの運転手やから、夜勤で朝に帰ってくる生活で、友達がひとりもおらんかって、ただ新聞だけを見るような人だった。

 小学生の時は、報徳学園の練習を見たあとに、(阪急の)西宮球場に行くねん。

第2球場はタダで入れるから。

岡田 小学生の頃はそういうルーティンがあったんですね。

金村 当時は、(球場内に)ファンブックが置いてあって、そこに選手の自宅住所とか、電話番号とか、乗っている車とかが全部書いてある。だからそれを見て、高台の高級住宅街に行って、インターホン押して、ワーッと逃げて......それで足腰を鍛えてた(笑)。当時の阪急の1番福本豊、2番大熊忠義、3番加藤秀司、4番長池徳士って順番に家を回ったけど、(5番の)スペンサーの家だけは行っていないな。

岡田 誰が打順どおりに家を回れと言った!(笑)

金村 そのなかで一番大きい家が4番の長池さんでした。

岡田 金村少年はそんなふうに小学校時代を過ごしていたんですね。中学校は?

金村「中学から報徳学園に行かしてくれ」って親に頼んで、行かせてもらいました。今考えると、ようあんなこと言うたなと思います。

岡田 当然、私立は学費が高いですよね。

金村 兄貴も中学から報徳学園に入れてもらってたんです。クラブチームで、キャッチャーで4番で有名だったから。

岡田 お兄さんは推薦か何かで?

金村 違う。受験勉強をして入りました。それに輪をかけて「俺も入れてくれ」って。でも、お父ちゃんには1週間泣いて頼んでも「あかん」、土下座しても「あかん」って言われて。その姿をけなげに思ったお母ちゃんが清掃の仕事にも行ってくれて(仕事を増やしてくれた)。お父ちゃんにも「うるさいから頼む。この子は勉強もできるから」と言ってくれて、「もう勝手にせえ」と。

 報徳学園中学に入ってからは、成長痛とかいろいろあるなかでも、毎日壁当てをしたり、トラックのタイヤに竹バットで打ちつけたり、自転車のチューブでインナーマッスル鍛えたり......あのチューブの筋トレは俺が考えたんやで(笑)。そんなふうに練習していました。

【厳しすぎた初出場のセンバツ】

岡田 金村さんのイメージは4番でエース、天才肌という感じでしたけど、実はそういう陰の努力があって、その根源にはお母ちゃんへの親孝行があったんですね。そして、いよいよ報徳学園の高校時代はどうでしたか?

金村 関西の(中学の)エースで4番ばっかりが集まっていて、1年生(部員)だけで140~150人。今も全体で150人ぐらいいて、4軍まであんねんけど、僕らの時は(練習が)厳しいから卒業する時は20人ぐらいまで減んねん。

野球部をやめてラグビー部に行ったり、サッカー部に行ったり。

岡田 そこで金村さんは頭角を現したんですね。

金村 でも、最初は背番号をもらえないやん。最初の番号は18番だったかな。「あいつより俺のほうがうまいのに」って思っていても、監督は裕福な家庭の子が好きでな(笑)。

岡田 ちょっと待て待て。余計なこと言わんでええねん(笑)。

金村 母親にも「お前が中途半端やから裕福な家庭の子に負けるんや」って怒られて(笑)。烈火のごとく「どんな思いでお前を学校入れたと思っているんだ! 3倍努力せい!」って言われて、そこから"ひとり巨人の星"で頑張って、エースナンバーの1番をもらいました。

 それでやっと甲子園に近づいたと思ったのに、(3年の)センバツは近畿大会でPL学園に負けたんです。それでも、ぎりぎり選ばれて出場が決まった。みんなは監督の胴上げをしていたけど、僕は自転車でお母ちゃんのところに行って「甲子園決まった」って言うて、「これでスカウトの目に留まる」って思った。

岡田 夢が現実になって、当然お母さんも甲子園に観に来たんですよね?

金村 毎試合来ていました。地元が近いしね。1回戦の相手は愛知県代表の大府高校で(エースは)槙原寛己(元巨人)や。でも、公立高校だし、「知多半島ってどこ?」って感じだった(笑)。

岡田 今みたいに情報はたくさんないしね。

金村 そう、ほんまに。当時はみんなソリコミを入れてたんやけど、僕だけ青ゾリになるのが嫌で、気合いを入れて、毛抜きで抜いて。甲子園での入場行進の予行練習の時に、「大府高校って、どんな高校や」って(相手のところまで)かましに行って「槙原呼べ!」とか言って(笑)。

岡田 むちゃくちゃやな。

金村 そんな感じで気合いが入っていたんやけど......。試合開始のサイレンが鳴って槙原が投げたら、甲子園の大観衆がシーンと静まり返ったんです。忘れもせえへん。

岡田 槙原選手が、どれだけすごいかって情報も全然なかった?

金村 事前に情報雑誌を見たら、「ピッチャー槙原はスゴい」って書いてあったんやけど、大府高校の打線評価は「B」って書いてあるし、「俺のほうがスゴいやん」ぐらいにしか思ってなかった。自信過剰のうぬぼれ屋やから。だから、(実際の槙原の)投球を見てびっくりした。それでも「槙原に負けん」と思って、力まかせに1回からストレートだけをバンバン投げたら、2回で5点取られた。B評価打線に(笑)。槙原にもライト線に打たれて。入場の予行練習では「おーい、槙原」とか言っていたのに、しゅーんとなって(笑)。

岡田 お母ちゃん、泣くで、ほんまに(笑)。

金村 甲子園始まって以来の報徳学園初戦敗退。監督には「お前のひとり相撲で負けた」「野球やめろ」とまで言われて。でも、バッティングはよかったんや。たまたまバットを短く持って、目をつぶって振ったら槙原から3本ヒットを打てた。

ホームラン、2塁打、ヒットの3打点。1回戦で負けて泣いてたんやけど、ある雑誌に「今大会最高打者」って書かれていて、「よし、バッターや!」って(笑)。

岡田 立ち直るのが早いなあ(笑)。センバツのあと、夏の甲子園はどう迎えましたか?

金村 バッターでいこうと思ってからは、バッティング練習ばかりしてました。槙原だけじゃなくて、各校スゴいピッチャーがいたから、もう無理だなと思って。

【Profile】 
金村義明(かねむら・よしあき)/1963年8月27日 兵庫県宝塚市出身。現役時代はNPBのオールスターゲームと公式戦でのサイクルヒットなど数々の記録を残した。現在は野球解説者、野球評論家、タレントとして活躍。2017年12月からは兵庫県高砂市観光交流ビューローからの委嘱によって「高砂応援大使」を務めている。

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