語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第36回】山田章仁
(小倉高→慶應義塾大→ホンダ→三洋電機→NTTコミュニケーションズ→
 リヨンOU→シアトル・シーウルブズ→九州KV)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載36回目に紹介するのは、40歳となった今も地元・福岡で現役を続けるWTB山田章仁(やまだ・あきひと/九州電力キューデンヴォルテクス)だ。2000年代から「韋駄天」の名にふさわしい活躍を見せ続けたフィニッシャーである。慶應義塾大、トップリーグ、そして日本代表で常にファンをワクワクさせてきた男だ。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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ラグビー日本代表・山田章仁のトライには華があった 九州の韋駄...の画像はこちら >>
 山田と言えばトライ。トライと言えば山田──。

 慶應義塾大時代はルーキーイヤーからエースWTBとしてトライを量産。トップリーグではパナソニックワイルドナイツ(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)でシーズン新記録となる20トライを挙げてトライ王を獲得。山田はラグビーの華「トライ」で多くの得点を重ねてきた。

 なかでもファンの記憶に最も深く残っているのは、2015年のワールドカップ・イングランド大会、サモア戦での「忍者トライ」だろう。

 日本代表として初めてワールドカップに出場した山田は、初戦の南アフリカ戦(34-32)で体を張った低いタックルを見せ、「ブライトンの奇跡」に貢献した。中3日で迎えた2戦目のスコットランド戦(10-45)こそ出場はなかったが、3試合目のサモア戦で再び「14番」を背負うこととなる。

 負ければ決勝トーナメント進出の望みが絶たれる大事な一戦。前半ロスタイム、山田はゴール前の右端で、同期でもあるPR畠山健介からパスを受ける。次の瞬間、110kgを超える相手の巨漢WTBのコンタクトに対し、「ロール」というアメフトの回転テクニックを駆使。相手をかわして右隅へ飛び込んだ。このトライで、日本は26-5での快勝に大きく弾みをつけた。

【「小倉の山田」と呼ばれた高校時代】

「ハタケ(畠山)を信じていましたし、相手が体の上にヒットしてくるのがわかったので、回転しました。ワールドカップの初トライはうれしかったです!」

 相手をくるりと回転してかわしたプレーは、世界のメディアが「忍者トライ」と称して絶賛した。ワールドカップの大舞台で最高のプレーを見せた山田は、この時ちょうど30歳。彼はどのようなラグビー人生を歩んできたのか、あらためて振り返ってみる。

 日本ラグビー屈指の「韋駄天」が生まれた地は、福岡県北九州市。YMCAラグビースクール(現ヤングベアーズ)で5歳から競技を始めた。その後、名門クラブの鞘ヶ谷ラグビースクールを経て、福岡の強豪・小倉高へと進学する。

 高校時代に花園出場は叶わなかったものの、スピードとステップに長けたプレーは九州随一。

「小倉の山田」は同世代で抜きんでた存在だった。高校2年時にはFB五郎丸歩(佐賀工高)、CTB今村雄太(四日市農芸高)らとともに、日本ラグビーの将来を担う「エリートアカデミー」の9人のひとりに選出されている。

 小さい頃から海外志向・プロ志向の強かった山田は、慶應義塾大の総合政策学部に進学。黒黄のジャージーをまとった九州の韋駄天は、独特のステップとスピード、アクロバティックなトライで1年時から秩父宮ラグビー場を沸かせた。また、大学生活ではオーストラリアに留学したり、個人トレーナーのもとで体を鍛えたりと、自らの研鑽を惜しまなかった。

 大学3年時には、7人制ラグビーの日本代表にも選ばれ、アジア大会の決勝で試合を決めるトライを挙げて金メダル獲得に寄与している。最終学年の2007年度は「早慶戦」で敗れて関東大学対抗戦2位、大学選手権でも早稲田大に敗れて準優勝。惜しくも日本一の称号は逃してしまったが、山田の存在感は増すばかりだった。

 大学ラグビーファンの誰もが、山田はすぐに15人制の日本代表となって活躍するものと期待していた。しかし現実は甘くなく、桜のジャージーへの道のりは予想以上に険しかった。

【「代表にふさわしいプレーをしろ」】

 大学卒業後、海外でのプロ選手となる道を模索しつつ、当時トップウェストAに所属していたホンダヒート(現・三重ホンダヒート)とプロ契約を結ぶ。入団初年度からチームの昇格に貢献し、2009年はトップリーグに参戦。持ち前のスピードや決定力は、最上位リーグでも十分に通用した。

しかし、接点やタックルではまだ物足りなさを感じてもいた。

 そんな山田に転機が訪れる。2010年に三洋電機ワイルドナイツ(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)へ移籍したことだ。「タックルしないと試合に出られない」というチーム文化のなかで、課題だったディフェンス力がメキメキと向上。トップリーグ初優勝にも貢献し、山田はプレーオフMVPと「ベスト15」に選出された。

 しかしワールドカップイヤーの2011年、山田はトップリーグで突出した活躍を見せながらも、フィジカルを重視していたジョン・カーワンHC(ヘッドコーチ)の信頼を得ることができなかった。代表合宿には呼ばれていたが、試合の最終メンバーに選ばれることはなかった。

 当時の山田は奇抜な髪型をしたり、アメフトとの「二刀流」に挑戦するなどしていた。そんな折、ワールドカップ終了後にエディー・ジョーンズHCが日本代表の新指揮官に就任。ジョーンズHCにいきなり「日本代表にふさわしいプレーをしろ」と諭され、それが山田にとって強い刺激になった。「先の目標ばかり見ていましたが、目の前のことにひとつひとつ集中するようになった」と振り返る。

 2012年秋、ノンキャップながらフランスリーグ選抜との強化試合で、山田は初めて日本代表として出場を果たす。

ジョーンズHCは選考理由を「トライを取っているから」と語った。事実、そのシーズンの山田はリーグ新記録の20トライを挙げてトライ王に輝いていた。そして迎えた2013年11月のロシア戦で、ついに初キャップを獲得。積年の努力が形となった。

 2014年になると、日本代表では先発の座をつかみ、欠かせぬ中心選手として躍動。所属クラブでも名将ロビー・ディーンズHC(現・エグゼクティブアドバイザー)の下、パナソニックで3度目のプレーオフトーナメントMVPにも輝いた。

【リーグ戦通算100トライも達成】

 そしてワールドカップイヤーの2015年。山田は念願だった海外挑戦を決断し、スーパーラグビーのウェスタン・フォース(オーストラリア)に入団する。残念ながら公式戦には出場できずにシーズンを終えたものの、この悔しい経験を糧(かて)にしてワールドカップに臨んだ。

 自身初となるスコッド入りを果たした2015年のワールドカップ。ジョーンズHCからの「山田は大舞台が得意」という期待を背に、初戦の南アフリカ戦で「ブライトンの奇跡」に貢献し、サモア戦では華麗なトライ。前述のとおり、檜舞台で大きなインパクトを残したというわけだ。

 2016年からは3シーズン、スーパーラグビーのサンウルブズの一員としても活躍。また、7人制日本代表としてリオデジャネイロ五輪も目指したものの、最終メンバーから惜しくも落選してオリンピック出場は叶わなかった。

 記念すべき日本開催の2019年ワールドカップ。34歳を迎えていた山田は代表スコッド入りを果たせなかった。しかしその後も活動は止まることなく、ワイルドナイツからNTTコミュニケーションズシャイニングアークス(現・浦安D-Rocks)に移籍。そのかたわら、フランス(リヨンOU)やアメリカ(シアトル・シーウルブズ)でもプレーするなど、常に世界に挑戦する姿勢を貫いてきた。

 2022年からは地元の九州電力キューデンヴォルテクスに移籍。2024年にはトライゲッターの証(あかし)となる「リーグ戦通算100トライ」も達成した。

 現在40歳となった山田は、ラグビー選手として活動する傍ら、3×3プロバスケットボールチームのオーナーや、バレーボールVリーグ所属「カノアラウレアーズ福岡」のゼネラルディレクターを務めるなど、そのチャレンジ精神は衰え知らず。グラウンドの内外で「韋駄天」ぶりを発揮している。

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