プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(22)
(連載21:越中詩郎の禁断の新日本移籍にジャイアント馬場はどう反応した?「侍戦士」と同級生の元東スポ記者が裏側を明かす>>)
1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。
そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。前回に引き続き連載の第22回は"侍戦士"越中詩郎。対戦してきたレジェンドファイターたちの印象、60代後半にして現役を続ける理由などを、あまり多くを語らない越中に代わって、同級生の柴田氏が代弁する。
【越中から見たレジェンドたち】
――越中選手は多くのレジェンドたちと交流がありました。ジャイアント馬場さんもそうですね。
柴田:馬場さんは若い頃から堅実な人物で、しっかりと資産形成をしていました。ハワイにふたつ、日本各地にもいくつか別荘を所有していたそうです。若い頃から不動産投資を始めていた馬場さんは、そのノウハウをジャンボ鶴田さんにも教えていたそうです。鶴田さんは、その教えを忠実に守り、不動産投資に熱心だったと聞いています。
――越中選手からすると、鶴田さんはどんなレスラーだったんでしょうか。
柴田:越中選手は、鶴田さんを「プロレスの天才」と表現しています。60分間の試合を平然とこなし、試合前には緊張感もなく「ちょっとやってくるね」と言って控え室を出て行き、戻ってきては「今日はどうだったかな」と平然と話す。息切れしている姿を見たことがなかったそうで、その底知れぬ体力や実力は、まさに桁外れだったそうです。
――藤波辰爾選手については何と言っていましたか?
柴田:藤波さんのことも「プロレスの天才」と言っていました。鶴田さんと同じ匂いがしたそうです。若くしてニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでタイトルを奪取し、日本に持ち帰ったことは、当時の日本人レスラーにとっては信じられない快挙。プロレスラーとしての藤波さんの才能を高く評価しているのでしょう。
――長州力さんについてはどうですか?
柴田:「長州さんがいなければ、あの頃の新日本は絶対にもたなかった」と断言しています。
――それは、1990年代から2000年代の現場監督時代ですか?
柴田:当時の新日本は武藤敬司や蝶野正洋、橋本真也、佐々木健介などが所属していて、多士済々でみんな自己主張も強かった。長州さんが現場監督としてそのすべてを受け止め、時には自分を殺してまで組織をまとめていたと話していました。
――あの頃の長州さんはピリピリしていましたね。
柴田:私も、時には「アッチ行け」と追い払われ、時には「オイ、柴田。〇〇はどうだ?」と意見を求められました。越中選手の話を聞くと、ピリピリするのも仕方なかったでしょうね。
【髙田延彦とジュニア版名勝負数え唄】
――越中選手は長野に移住されましたが、その理由を聞いていますか?
柴田:東京から離れて地方での生活を考えていた越中は、静岡県の熱海や伊豆、千葉県の房総など、温暖な地域への移住を考えていたそうです。しかし、たまたま訪れた長野県諏訪郡原村の空気を奥様が大変気に入られ、移住を決意したと聞いています。
――長野での生活はどのようなものなのでしょう。
柴田:夏は草刈り、薪ストーブ用の薪割り、冬は雪かきをしたりと、体を動かすことが生活の一部になっています。日本のマラソン選手が米国コロラド州で高地トレーニングをするように、越中は日々の生活そのものがトレーニングなんです。彼はDIYも得意で、自分で棚や薪置き場を作ったりしています。また、蕎麦屋や温泉が多いことも気に入っているようです。ただ、都内での試合も多いし、各地への移動などもあるので、東京にも拠点はあるようですけどね。
――越中選手と言ば「ヒップアタック」です。他にもヒップアタックを使う選手は多くいますが、それを越中選手はどう見ているのでしょうか。
柴田:彼は自身の代名詞であるヒップアタックを、他の選手が使うことを歓迎しているようです。これは、彼がプロレス界を盛り上げたいというサービス精神の表われでしょう。
――ライバルである髙田延彦選手とはどのような関係でしたか?
柴田:UWFとして前田日明、髙田延彦、山崎一夫、藤原喜明、木戸修が新日本に戻りましたが、髙田の蹴りを真っ向から受ける越中選手の姿に胸を躍らせるファンは多かったですよね。
――髙田さんはその後、ヘビー級に転身し、1995年10月9日にUWFインターと新日本の対抗戦が行なわれました。大将戦で武藤さんに敗れますが、翌年1月4日の東京ドームでリベンジ果たします。越中選手はその髙田さんに立ちはだかり、同年3月1日にヘビー級同士のふたりが激突しました。
柴田:越中選手は、この時の髙田についてひと言、「髙田は髙田だったよ」と。多くを語ることはありませんでしたが、その言葉の裏には、お互いに認め合いながらも複雑な関係性があるのがうかがえました。
【永久不滅のサムライ哲学】
――60代後半になっても現役を続ける越中選手。そのモチベーションは何なのでしょうか。
柴田:彼は、「自分はまだ"レジェンド"ではない」と考えているようです。現役として試合に出続け、新しい世代のレスラーと対戦することが、彼のプロレス哲学です。
――年間でどのくらいの試合数に出場していますか?
柴田:「オファーをもらった大会は出場する」と張りきっています。
――50年近く前のメキシコ時代の記録などは、残っているのかどうか......。
柴田:どうでしょうかね(苦笑)。メキシコでは1日に2試合戦うダブルヘッダーも当たり前で、時にはトリプルヘッダーもあったようですからね。
――記録残っているといいですね。
柴田:本当にそうですね(笑)。
――次世代のレスラーについては、どのように見ているのでしょうか。
柴田:越中選手は多くの若手レスラーに期待を寄せています。特に、ストロングマシーン・ジュニア選手については「お父さんを超えられるかもしれない」と高く評価していました。
――ヒップアタックと並んで、越中選手と言えば「やってやるって」という言葉が代名詞になっていると思います。
柴田:越中選手はそう言うんですが、私は聞いたことがある気がします(笑)。それが広まったのは、ケンドーコバヤシさんの影響でしょう。越中は自分のものまねをしてくれるケンコバさんに感謝しています。「みなさんが『やってやるって』で、喜んでくれるのなら、こんな嬉しいことはない。彼のおかげでもあるよね」と繰り返し言っていますよ。
――同級生でもある越中選手は、柴田さんにとってどのような存在ですか?
柴田:越中詩郎という男は本当に貴重な存在です。20歳でデビューし、47年以上のキャリアを積んできました。プロレス界の激動の時代を経験し、多くのレジェンドたちと交わり、そして今なお現役を続けている。全日本プロレスと新日本プロレスを股にかけ、過去のレジェンドレスラーたちと直にリングで闘ったり、タッグを組んだりしてきただけに、多くの真実を知っています。
しかし、その多くを語ろうとしない。YouTubeチャンネルを立ち上げてその真実を話してほしいと願うファンは多いでしょう。
【プロフィール】
柴田惣一(しばた・そういち)
1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として各メディアで記事を掲載。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。



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