ダイヤの原石の記憶~プロ野球選手のアマチュア時代
第23回 福島蓮(日本ハム)
冬ともなれば、粉雪とともに冷たい強風が吹き荒れる青森県八戸市は、いにしえの頃から「氷都」と呼ばれる。
「寒いのが苦手で、温かいところが好きです」
県立校である八戸西高でプレーしていた福島蓮(日本ハム)は、悪戯っぽい笑顔でそう語ったことがある。
【細身の体に秘めた可能性】
八戸市立湊中での軟式野球を終えた福島は、高校進学も見据えて硬式チームの八戸ウエストクラブに加入した。そこでの経験が「めっちゃ楽しかった」と言う。
「楽しかったクラブチームで一緒にプレーした多くの仲間と『ニシコウ』へ行くことを決めました」
地元では「ニシコウ」や「ハチニシ」と呼ばれる八戸西高で、気心の知れた仲間とともに甲子園を目指すことを心に誓った。
高校入学当初は、高身長でありながら体重59キロ。まるでマッチ棒のようで、八戸西高の小川貴史監督が「モデルなのか......」と、思わず言ってしまうほどにスラっとした細身だった。
投手兼遊撃手の中学時代もそうだったが、その体躯でありながら身のこなしは軽やかだ。潜在能力の高さと将来性を見込まれて、八戸西高では投手一本で勝負することになる。
「はじめは投手に専念することにちょっと抵抗があったみたいですけど、福島に対しては『投手に専念してプロへ行くんだ』と伝えながら、じっくりと見守りました。今でも、ショートをやらせたら一番うまいですよ。でも、中途半端にやるんじゃなくて、投手に専念してやっていこう、と」
そう振り返ったことがある小川監督と、野球部OBで投手育成を担う外部コーチの中村渉(元日本ハム)の勧めで、福島は本格的に投手としての道を歩み出した。
小川監督曰く「投げたがり」な福島は、コロナ禍にあった2020年の2年時も地道にシャドーピッチングなどを繰り返して、投手としての礎を築いていった。
【母校初の甲子園出場に貢献】
才能の一端が開花し始めたのは、エース番号を背負うことになった2年秋から。189㎝右腕が放つストレートは最速143キロをマークして、カーブ、スライダーといった変化球の精度も高まった。秋季青森大会では、準々決勝で八戸工大一高を相手に10奪三振完投など、準優勝の立役者になると、東北大会初戦(福島商高戦)でも完投勝利。
花巻東高(岩手)との準々決勝は2失点で敗れるのだが、翌年の選抜大会出場につながる快投を見せた。東北大会を終えて「怯まずに投げられた」と振り返った福島が、21世紀枠での選抜出場が決まった2021年1月、確かな口調でこう語った姿が忘れられない。
「ストレートは150キロが目標です。でも、その球速を出したからと言って、勝てるわけではない。今は『勝てる投手』になりたい。とにかく、勝てる投手に......」
青森県勢として初となる21世紀枠、県勢の公立校としては1985年の弘前工高以来36年ぶりの選抜大会出場となった。1975年創部の八戸西高野球部にとっては、春夏通じて初の甲子園出場だった。
21世紀枠対決となった具志川商高(沖縄)との選抜大会初戦。先発マウンドに上がった福島は、5回を投げて被安打6、失点5(自責点3)。
その年の夏、福島が甲子園のマウンドに戻ることはなかった。「勝てる投手になりたい」という思いを、全国の舞台で体現できないまま、高校野球生活は幕を閉じた。それでも、メジャーリーグの名門・ヤンキースを思わせるピンストライプの八戸西高のユニフォームに身を包み、地元の仲間たちとともに甲子園を目指し続けた日々、そしてそのマウンドに立った福島の姿は、強く印象に残っている。
高校時代、自身に秘められた可能性を信じ、未来のため、そしてチームのために右腕を振り抜いてきた長身右腕は、2021年のドラフト会議で日本ハムから育成1位指名を受けた。支配下選手登録を勝ち取ったのは、21歳を迎えたプロ3年目の2024年3月だった。
勝てる投手になりたい──。大きな舞台で、その思いが叶う瞬間が訪れる。支配下選手となったシーズンの6月、福島は5度目の一軍マウンドでプロ初勝利を挙げた。その刻んだ白星は、地元への恩返しでもあっただろうか。










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