鈴木裕司・健介「YK BROTHERS」の挑戦(前編)

 慶應義塾で過ごした7年間が、自身のアイデンティティを育んでくれた。大手酒類メーカーに勤務する鈴木裕司さんは、慶應義塾高(神奈川)で春夏2度の甲子園出場を果たし、慶應義塾大でも東京六大学リーグ戦通算43試合に出場した。

「慶應でよかったのは、主体性を持って野球に取り組めたことです。常にチームにとっての最善を考えながらプレーする環境で、学生ながら視座の高い野球ができました。その経験は社会人になった今も財産です」

兄は慶應、弟は早稲田で甲子園、神宮でプレー 「同じ道を歩まな...の画像はこちら >>

【慶應で身につけた考える野球】

 大学卒業後、社会人野球という選択肢もあった。甲子園では4番を務め、大学でもクリーンアップを任されることがあった長打力のある右打者は、社会人チームにとっても魅力的だっただろう。

「プロを目指す覚悟が本当にあるのかを考えました。もしなれなかったら、と迷いが生じる時点でプロではやっていけない。そう思い、野球はきっぱりやめて就職活動を始めました。お酒が好きだったこともあり、酒類業界を志しました」

 学生時代から「考える」ことを自然と繰り返してきた。高校球児は、「どうやったら甲子園に出られるのか」が3年間の最大テーマだろう。慶應高は鈴木さんが中3時の2005年春の選抜に45年ぶり出場を果たしたが、夏は1962年が最後だった。横浜、東海大相模の2強を筆頭に、強豪校がひしめく激戦区の神奈川県でいかに勝ち抜くかを考え、日々を過ごしてきた。

「課題を構造化する考え方を学び、それを甲子園出場にどう生かすかを自分たちで考え、実践しました。他校とは違うアプローチで3年間やれたことは大きかったです」

 印象的だったのは、短時間の練習のなかで、ワンプレーごとに止めて選手たちで議論を交わし、徹底的に突き詰めていくことだ。

少しでも気を抜いたプレーをすれば鋭い指摘を受けるため、懸命になって白球を追った。

「特に高校に入学した当初は、こんなにコミュニケーションを取りながら野球をする文化があるんだと、すごく新鮮でした。意見を持っていない選手がいるとプレーが止まってしまうので、みんながどんどん考え始めて野球の頭が良くなっていくというか、そういう感覚がありました」

 2008年、慶應高は春夏甲子園出場を果たす。北神奈川大会決勝の東海大相模戦では、9回に鈴木さんの同点犠飛などで追いつき、延長13回の末に勝利。46年ぶりの夏の甲子園を決めた。

「慶應はほかの強豪校に比べたら技術レベルは高くなかったですけど、ああいうアプローチの仕方が野球でもあるんだというのを知れたのは本当に大きかったです」

 甲子園では8強入り。神奈川の強豪校を倒すために積み重ねてきた思考と工夫が、全国でも通用する力となった。

【書き続けることで磨かれた思考】

 慶應大に進んでも、「考える」ことを止めなかった。練習中は、手の平サイズのメモ帳をユニホームのポケットにしのばせ、ミーティングの内容や、技術面で気づいた点などをその場で書き記す。寮に戻ってから、野球ノートを書く際の参考にしていた。

「メモ帳にはその日起こったことや気づいたこと、野球ノートには"今日の学びと明日の目標"を書いて、翌朝それをもう一度見直してから練習や試合に臨んでいました。メンバーやスタメンに選ばれるためには何をしないといけないのかを逆算しながら、こういう工夫をしようといったことを書いていました」

 2年秋からベンチ入りし、3年春のリーグ優勝に貢献。現在も仕事の中で、気づいたことはノートに書き留めている。

「書き続けることで、自分の思考のクセがわかるようになりました」

 慶應で学業と野球を両立させることは想像以上に大変だった。ただ、それをやり遂げたからこそ、今の自分があるということを自覚している。

「中3の受験の時から準備、努力をして、しっかりと考えるということが、慶應に入ってから、磨かれた気がします」

 自らを育んでくれた野球に感謝をしながら、日々の仕事に打ち込んでいる。

兄は慶應、弟は早稲田で甲子園、神宮でプレー 「同じ道を歩まなかった」鈴木兄弟が野球への恩返しを語り合うまで
3年夏の甲子園の倉敷商戦で完封勝利を飾った鈴木健介氏 写真は本人提供

【兄とは違う道で自分を証明する】

 兄とは違う道を選んだからこそ、今の自分がある。大手広告代理店に勤務する弟の鈴木健介さんは、中学時代に全国的に知られた投手だった。兄と同じ慶應ではなく、早稲田実業(西東京)への進学を選んだ。

「兄と同じ道ではなく、自分自身として挑戦したかった。『裕司の弟』ではなく、『鈴木健介』で勝負したかったんです」

 U15日本代表として世界大会を経験し、中学では主将も務めた。部活動とクラブチームの両立は、父の助言もあっての選択だった。

「ずっとシニアの活動だけに専念していると、中学でコミュニティから外れる場合があります。学校生活をどうよくするのかということを考えると、やはり部活動に入っていたほうがよかったという話を社会人になってから父としました。実際に振り返ってみると、友だちに囲まれた中学生活だったなと思います」

 早実では入学してすぐの春季大会からベンチ入りを果たし、1年夏の西東京大会では全6試合中5試合に登板して準優勝。2年春の選抜では全3試合でリリーフ登板し8強進出。

同年秋の新チームではエースナンバーを背負うなど、順調に成長曲線を描いてきた。しかし、都大会準々決勝の日大三戦で5対14と大敗したことが、「大きなターニングポイントでした」と振り返る。

「2回途中8失点で降板して、自分のせいで甲子園に行けなくなり、チームのみんなに迷惑をかけてしまったという経験が本当に大きかったです。『早実のエースとしての自覚があるのか』とか、いろいろなことを言われて、そこから目の色を変えて練習をした記憶があります」

 ひと冬越えてナインからの信頼を勝ち取ると、迎えた3年夏の西東京大会決勝。2年前の決勝で敗れた日大鶴ヶ丘とのリベンジマッチで完封勝利を飾り、斎藤佑樹(元日本ハム)らを擁して全国制覇を果たした2006年以来、4年ぶりとなる夏甲子園出場を果たす。そして1回戦の倉敷商(岡山)戦では毎回の11奪三振で再び完封勝利。チームの3回戦進出に大きく貢献した。

「甲子園では自分の持っている以上の力が出たというか、人生のベストピッチングがそこで出たと思います。家族や学校の仲間、OBの方々など多くの関係者が心から喜んでくれたことで、『誰かのためになりたい』という思いが自然と芽生えました。この経験は自分の人間形成においても大きな転機になったと思います」

【早大で味わった人生最大の挫折】

 甲子園で通算6試合に登板した実績を引っ提げ、内部進学した早大に鳴り物入りで入学した。しかし、部内のあまりのレベルの高さに、その自信は早々に打ち砕かれることになる。

「同級生に有原航平(前ソフトバンク)や高梨雄平(巨人)がいて、同じ土俵でやっていくのは厳しいなというのを感じました。

高校では甲子園にも出たので、大学でも多少はやれると思っていましたが、2年生までは一度もベンチに入れませんでしたし、部員も多くてなかなか練習できないという環境も含め、自分の人生の中で一番大きな挫折でした」

 それでも腐ることなく、3年春の東京六大学リーグ戦で初登板を飾ると、4年秋の早慶第3戦の9回二死から登板して試合を締めた。通算3試合で0勝0敗、防御率7.36。成績こそ残せなかったが、ワセダで過ごした7年間は、鈴木さんにさまざまなことを教えてくれた。

「就職活動のエントリーシートにも『栄光と挫折』と書いたぐらい、いい時とよくない時がはっきりしていました。高校時代は甲子園で6試合投げて完封もしましたが、大学でその自信はガラリと崩れ落ちて、大きな挫折も経験しました。でもその両方を経験できたことで、人としての深みが出たと思っています」

 大学限りで競技生活に別れを告げ、新卒で大手広告代理店に入社。目の前の仕事に真摯に向き合い、成果に繋げていくうちに気がつけば30歳を超え、中堅社員の立ち位置となった。

 3年前のある日、大手酒類メーカーに勤務する兄の裕司さんと酒の席で、自分たちの未来を語り合った。

「互いにいろいろな仕事を経験して、それなりにやれることがどんどん増えてきましたが、会社員の仕事って替えが利くよね、という話から始まった記憶があります。自分たちにしかできないやり方で世の中に貢献できないかということを、酔っ払いながらも本気でぶつけ合いました」

 共通の思いは「野球に恩返しがしたい」ということ。野球によって育まれた兄弟は、一度は違う道を歩んだが、野球によって、交差しようとしていた。

つづく>>

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