関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(1)

 プロレスラー藤原喜明は、2025年11月12日にデビュー53年目を迎えた。サラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。

アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

【プロレス】藤原喜明が振り返る半生 新日本プロレス、UWF、...の画像はこちら >>

 1984年2月3日、雪の札幌で長州力を襲撃し、一気にメインイベンターへ。その後はUWFへの移籍、藤原組の設立などを経て、76歳の現在も現役でリングに上り続ける激動のプロレス人生を送ってきた。

「関節技の鬼」のほか、「テロリスト」「仕事師」「猪木の影武者」「組長」など、さまざまな異名を持つ藤原が、半生を振り返る連載をスタート。第1回は、原点となる少年時代について語った。

(本文、敬称略)

【体が弱かった小学生時代】

 藤原は1949年4月27日、岩手県の南西部にある和賀郡江釣子村(現在の北上市)滑田(なめしだ)で、父・竹治(たけじ)、母・トクの間に、6人兄弟の長男として生まれた。父は、農閑期にはとび職として自宅を離れ、全国各地を回っていた。

「親父は大阪、四国と、あちこちに行ってた。田植え、草取りとかが終わって暇になると、3、4カ月は家を出て転々としてたな」

 農家だった自宅は、茅葺き屋根で広間には囲炉裏があった。約300坪の敷地内には、10羽くらいの鶏を飼育する鳥小屋があり、豚を2頭養育し、農作業のための馬を飼う馬小屋もあった。

「田んぼは3000坪、畑は900坪ぐらいあったなぁ。畑では、とうもろこし、なす、きゅうり、トマトを栽培してたよ。でも、農家としては小さいほうだったんだ。

家は平屋でな。12畳ぐらいの部屋が4つあって、宴会をやる時は襖を外して、近所の人を呼んでにぎやかに騒いでいたよ。

 冬はとことん寒い。雪は1メートルぐらい積もるんだ。住んでいた頃は、『こんなウチは嫌いだ』と思っていたけど、振り返ればぜいたくな家だったな」

 実家では高校を卒業するまで過ごしたが、一番古い記憶は2歳の頃だという。

「藁(わら)で編んだ籠を、東北の言葉で『えんつこ』って言うんだけど、親が田んぼで仕事している時、小さい子供がどっかに行かないように入れておくんだよ。俺も両親が田んぼで働いている時、土手みたいなところに置かれてたんだ。ところが、何かの拍子にゴロゴロ転がって、田んぼにドボ~ンって落っこちてな。親父とおふくろが慌てて助けにきたのを覚えているよ」

 広い自宅では囲炉裏に落ちないように、腰に麻ひもを巻かれて柱につながれていたという。

「体が弱かったから、小学校へ行くまでは、親父とおふくろがいない時は『家から出ちゃいけない』ってしつけられてたんだ。だけど俺は、好奇心が旺盛で、庭で木登りして肩を脱臼したこともあったな。風邪もひいたし、肺炎、中耳炎もよくかかったよ」

 江釣子第二小学校(現在は江釣子小)に入学すると、家業の農作業を手伝った。

「小学校に入ってから、俺は馬の世話係になってな。主な仕事は、ブラッシングとエサやり。ブラッシングは、馬を川に連れて行って水浴びさせてブラシをかけてあげるんだ。3年生くらいからは、馬に乗って川まで連れていったよ。

 ただ、農耕馬って重労働なんだ。あの頃はエサといっても粗食で、5、6歳になると農耕馬として使えなくなっちまうんだよ。そうすると新しい馬がくるんだけど、かわいがっていた馬と別れちまうから......悲しかったなぁ。そういう厳しい現実が俺の日常生活だったから、人間は自然のなかで生かされているってことを教えられたような気がするな」

【初めて見た力道山の試合に「なんなんだ、これは!」】

 春には田植え、秋になれば稲刈りと、あらゆる仕事を手伝った。

「畑仕事は、みんな大変なんだ。楽な仕事なんかひとつもねぇ。学校から帰ると手伝わされるから、家に帰るのが嫌だったよ」

 帰りたくない藤原少年は、学校から家までの約2キロの道のりで、りんご、桑の実などを食べてみちくさをしていた。

 そんな、多感な小学生時代に、藤原は初めてプロレスを見た。

「6年生くらいだったと思うけど、学校の講堂で映画観賞会があったんだよ。

昔の映写機だからフィルム交換があって、その間にニュースが流れるだ。その時に、力道山先生の試合が出てきたんだよ。

 家にはテレビもなかったし、プロレスも知らなかったから、『なんなんだ、これは!』とショックを受けたんだ。それがプロレスとの出会い、始まりだった。だけど、その時は『プロレスラーになろう』とまでは考えてなかったよ」

 時は1961年。力道山の全盛期だった。黒いロングタイツ姿で、空手チョップで外国人をなぎ倒す雄姿が、藤原少年の心を掴んだ。江釣子中学に進む頃には、身長が170cmを超えるなど、身体が大きくなっていった。

「中学では剣道部に入ったけど、練習はあまり行かなかったな。家の仕事が忙しかったし、スポーツをやる暇もカネもなかったから。だけど、3年生の時に大会に出て負けたら悔しくて、そこから半年ぐらいは一生懸命やったよ」

 剣道部以外では、相撲でも勝ち負けにこだわった。

「体育館のバスケットボールコートの円を土俵に見立てることもあったし、冬は田んぼの真ん中に雪を固めて土俵を作ったよ。

俺は上級生と勝負しても負けなかったけど、たまに負けると、『あの相撲で負けたのは、どうしてなんだろう? どうすれば勝てるんだろう』ってずっと考え込んでたな。

 勝つも負けるも理由があるんだよ。俺は、そうやって考えるのが好きだったし、理由がわかって次の勝負で実践すると、一度負けた相手にも勝てるんだよ。それが面白かったな」

【人から「やれ」と言われると嫌になる】

 中学時代には両親がテレビを買ったが、電波の状態が悪くて映らない時があった。

「だから俺は、竹と銅線で自分でアンテナを作ったんだよ。おじさんが大工だったから、家の中に大工小屋があってな。のこぎり、鉈、金づち......大工道具がズラ~ッとそろってたから、作れたんだ。自分で作ったアンテナのおかげで、岩手では見られない仙台放送が映ったんだよ。

 ほかにも、木を削って彫刻を作ったり、丸太に人の顔を彫ったりしていたんだ。絵を描くのも好きだったな。俺は人から『やれ』と言われると嫌になるタイプだけど、自由に気の向くままにやると没頭する性格なんだ。小学5年ぐらいからは、彫刻を作ったり、絵を描いたりすることが俺にとっての遊びだったな」

 相撲が強く、手先が器用だった少年は中学を卒業後、北上市内の県立黒沢尻工業へ進学した。

「家が貧乏だから、本当は高校には行かずに働くって決めてたんだ。だけど、先生や親から『今の時代は高校ぐらい行かなきゃダメだ』と説得されてな。当時は、国民所得倍増計画の時代だったから、工業高校の機械科は倍率7倍。競争率が激しかったよ」

 高校でも剣道を続け、応援団のリーダーも務めた。卒業後は上京し、就職すると決めていた。

「とにかく働かないといけねぇなって思っていた。普通なら、俺が家の農家を継がなきゃいけねぇんだけど、俺は嫌だった。朝から晩まで働いて、苦労しても貧乏なのを目の当たりにしてたからな。親父からは『農家を継げ』って言われたよ。だけど、さっきも言ったけど、俺は人から『やれ』って言われると嫌になっちまう。昔からへそ曲がりだったんだよ」

 農家を継がず、岩手を離れた。その18歳の春の決断が、藤原とプロレスを近づけることになる。

(つづく)

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

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