関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(2)
(連載1:新日本プロレス、UWF、藤原組と渡り歩いた「関節技の鬼」の原点>>)
プロレスラー藤原喜明は、サラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。
そんな藤原の激動の人生を振り返る連載の第2回は、会社員やコックとして働いていた時代と、新日本プロレスに入門するまでの経緯を明かした。
(本文、敬称略)
【勤め先でウエイトトレーニング部を設立】
高校を卒業した藤原は、実家の農業を継がずに故郷の岩手県を離れた。就職先は埼玉県川越市にあった建設機械などの大手メーカー、小松製作所(現・コマツ)とアメリカのインターナショナルハーベスター社の合弁会社「小松インターナショナル」。配属されたのは部品を管理する工務課だった。
「田舎を出て、ホントは日本の中心である東京に行きたかったんだけど、そこまでの勇気がなかったんだ。それで、一歩手前の埼玉・川越の会社を選んだんだよ。製造ラインに送る部品を管理する仕事でな。今も、その頃の出庫リストを持ってるよ」
そう話しながら、当時の出庫リストを見せてくれた。リストの裏には似顔絵が描いてあった。
「これが誰かって? 会社の上司だよ。俺は、机に座ってただボーッとしているのが大嫌いで、常に何かをやってなきゃ気が済まない性分だから、暇な時は書類の裏に仕事仲間の似顔絵を描いてたんだ。これはサボってたんじゃねぇぞ。俺にとっちゃ、人間を観察して似顔絵を描くのも立派な仕事だったんだよ(笑)」
そんななかで、藤原はある行動に出る。
「俺が総務部長のところに行って、『ウエイトトレーニング部を作りたいんです』ってお願いしてな。それが認められて、練習する場所をもらったんだ。
トレーニングは、高校の時から自宅でやっていたんだよ。最初は本屋で、自転車の古チューブを使ったトレーニング法を紹介する本を見つけて、それを参考に練習してたんだ。そこから、自分で木を切って腹筋台を作って腹筋をしたり、木を担いでのスクワットをやったりしていた。アルバイトでお金を貯めて、通信販売でバーベルのセットも買ったな。
トレーニングはずっと続けたかったんだけど、就職先の寮の近くにジムがなかったんだよ。どうしようと考えて、『そうだ! 会社にトレーニング部を作ればいいんじゃねぇか』って思ったってわけだ」
【会社員からコックに転身】
藤原が設立した「ウエイトトレーニング部」には、47人もの部員が集まったという。
「トレーニングのメニューは、自分で本を読んで決めてたよ。ただ、最初は器具がなかったから、部員から集めた部費を使ってトレーニング器具をローンで買ったんだ。だけど、当時の通販って注文してから届くまで2カ月ぐらいかかってな。部員から『あの金、どうしたんだ?』って疑われて大変だったよ」
その後、先輩に相談されて柔道部も作った。
「終業後に、週3日はウエイトトレーニング、柔道の練習も週3でやってたな」
充実した会社員生活を送っていたが、次第に違和感を覚えるようになった。
「俺は時間内にババッと仕事をやって、就業のベルが鳴ったらすぐにトレーニング、柔道の練習をしたいタイプだった。だけど、そういうヤツは会社からは評価されないんだよ。チンタラチンタラと、タバコを吸いながら残業して......。俺から見れば、ただ机に座っているだけなんだけど、そんなヤツのほうが給料は高いし、ボーナスもいいんだよ。サラリーマンを2年半やって、そういう現実を知って『サラリーマンは性に合わないな』と思って会社を辞めたんだ」
退社した藤原が転職したのは調理師。勤めた店は、東京・神田にあった喫茶店だった。
「会社を辞めた時に、『飯を腹いっぱい食うにはどうすればいいかな』と思って、コックになったんだ。早く料理を覚えたかったら、誰よりも早く店に行ってキャベツの千切りをやったり、先輩が作る料理の味つけを見て覚えたりしてな。それをメモして、試しに店で作ったりしてたよ。そうやって、毎日必死にやっていると味を覚えていくんだな。
夜は、麻雀の店の客に料理を提供する仕事もしたという。6、7店ぐらいを転々としたが、その理由は「味を覚えたから」だけではなかった。
「料理店にはチーフがいて、二番手、三番手がいる。でも、その下にいる人間で生意気なことを言ってくるヤツがいるんだよ。料理のことで叱られるなら我慢できるけど、そうじゃないことで文句言われると、『なんだこの野郎!』ってケンカになるんだな。そんなことで辞めたこともあったよ」
そんな料理修業中もトレーニングは続けていた。新橋のジムに入会し、肉体を鍛えていたという。
「昼と夜の仕事の間に3、4時間くらい休みがあったから、その時にジムへ行ってたよ。思い出すのは、ジムのテレビで(1970年11月25日に)三島由紀夫さんが自殺したニュースを見たことかな」
【ジムの会長との縁でプロレスの道へ】
洋食から和食まで、さまざまな調理を学んだ藤原は、横浜市内の中央卸売市場で働くことを決める。
「魚の勉強をしようと思って、『菊平』っていうマグロ専門店で働いたんだ。市場での仕事は冷凍マグロの解体。ハンマーで半身を切るんだけど、なかなかの力仕事だったな。
その仕事を始めてから、横浜駅前の「スカイ・ボディビル・ジム」に入会したが、そこで運命を左右する出会いがあった。その人物は、ジムの経営と指導を行なっていた金子武雄。金子は、重量挙げの全日本王者の肩書を引っ提げ、力道山が設立した「日本プロレス」で活躍した元プロレスラーだった。
「会長が偶然にも元プロレスラーの金子さんだったんだ。だから、ジムにはマットが敷いてあって、寝技の練習もやるようになってな。金子さんが寝技を教えていたジム生のなかでは俺が一番若かったけど、半年も練習したら一番強くなってたよ」
金子は日本プロレス時代の同門で、当時、国際プロレスの社長だった吉原功と懇意にしていた。
「金子さんと吉原さんが仲良くて、よく吉原さんがジムに遊びに来ていたんだ。ある日、ふたりが桜木町の焼肉屋に行く時に『お前も行くぞ』って誘われて。その時は肉を食っただけで何も言われなかったんだけど、今思えば、金子さんは吉原さんに『レスラーになりそうな、若いヤツはいないか?』と聞かれていたんじゃないかな」
結局、吉原から声はかからなかったが、1972年のある日、金子が「プロレスやるか?」と声をかけてきた。
「当時は国際プロレスがあって、新日本と全日本が旗揚げしたばかりだった。金子さんは、どこの団体にも顔がきく方だったから。
どうしてかって? 当時、『プロレス&ボクシング』っていう専門誌があって、そこに選手名鑑があったんだよ。それを眺めていたら新日本の選手が一番小さかったんだ。人数も少なかったし、『ここならチャンスがあるかもしれない』と思ったからだよ。ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんの名前は知っていたけど、悪いけど、あの頃はふたりへの憧れもなかったな」
金子の紹介で新日本プロレスへの入門が決まった。
(つづく)
【プロフィール】
藤原喜明(ふじわら・よしあき)
1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。



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