錦織圭という奇跡【第15回】
玉川裕康の視点(1)
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「最初に会ったのがいつだったか、記憶を辿っていっても、あまり思い出せないんですよね......」
25年ほどの時をさかのぼり、記憶のなかの景色にその人を探すように、玉川裕康氏は目を細めた。
玉川氏の現在の肩書きは「ストリンガー」。
テニスラケットは、選手たちにとって腕の一部といっても過言ではない。とりわけストリングで編まれた面は、手のひらといったところだろう。
ボールをつかむように捕え、時に激しく、時に柔らかく、狙った場所へと弾き飛ばす。指先のように繊細な感覚が求められる部位であり、多彩なショットを操るテクニシャンほど、少しの差異にも敏感だ。ストリンガーとは、それら一流の求めに応じ、「感性」という数値化が困難な概念をも具現化する「匠の人」である。
※ ※ ※ ※ ※
全豪オープンやオリンピックなどテニス界の最前線で活躍する玉川氏は、その道の第一人者だ。ただ、彼が初めて錦織圭に出会ったのは、ストリンガーとしてではない。隣町のテニスクラブで働く、アシスタントコーチとして。玉川氏の言葉を借りれば「ちょっとテニスのうまい、大学生のお兄ちゃん」であった。玉川氏が、生まれ育った鳥取市の「遊ポートテニスクラブ」でコーチとして働き始めたのは、鳥取大学のテニス部員時代。大学の先輩に誘われて「アルバイト感覚」で始めた。
「親からは『普通に就職しろ』と言われていたけれど、コーチなりストリンガーなり、テニスの世界で働くのもいいなぁ、そうなればいいなあと思っていた」
そんな時分だった。
のちの世界4位と玉川氏が接点を持ったのは、遊ポートテニスクラブのメインコーチである石光孝次氏と錦織家の親交が深かったから。錦織の遠征先や出場大会が遊ポートテニスクラブの選手たちと重なる時は、なかば保護者的な立場で面倒を見るようになった。
【錦織とほかの子との明確な違い】
だから出会った当初の錦織は、あくまで「何人かいる、全国レベルの子のうちのひとり」という認識だった。「最初に会ったのがいつだったか」の記憶が曖昧なのも、そのためだ。換言すれば、出会い頭に鮮烈な印象を残す子ではなかった、ということでもある。
「正直、ここまで来るなんていう想像は、その時はまったくできなかったですよね。当時はひとつ上の世代の子にはちょくちょく負けていたし、同世代ではトップでしたが、常勝かと言われるとそうでもない。まあ、テニスってそんなものですし、勝ったり負けたりの繰り返しという感じではありました」
それが玉川氏にとっての、錦織の初期の記憶だ。
ただ、やがて玉川氏の目にも、錦織とほかの子どもたちとの明確な違いが映り始める。それは、勝った試合よりも負けた時や、コート外でこそ際立ったという。
「変な話、大事な試合でポロッと負けたとしても、それでどうこうなるような子じゃないなっていうふうに思ったんですよね。
もちろん、めちゃめちゃ勝ちたいと思っていたはずだし、必死だったと思います。ただ......、言葉で表現するのがすごく難しいんですが、『絶対に勝つ』というような単なる結果ではなく、何か彼なりのこだわりや基準があるんだろうなっていうのは、当時から見ていて感じましたね」
勝敗を超えた先の、何か──。
当時11~12歳の少年の戦う姿に、玉川氏は結果以上の目的意識やモチベーションを感じていたという。それは、大会会場での錦織のたたずまいが、ほかの子とは違ったからでもあった。
全国大会などに行けば、多くの少年・少女たちはコート外でも自分の存在を誇示しようとする。あるいは他者と距離を置き、自分の世界にこもる者もいる。ただ錦織は、それらどのタイプとも異なったというのだ。
【つかみどころのない子】
「普通の子だと、会場に行ったら友だちと群れてみたり、マウントを取ったりするんですよ。ジュニアの世界って今も昔も、選手たちが会場で上下関係を作ろうとするのが、よく見られる光景なんです。
でも圭は、そういうのがまったくと言っていいほどなかったですね。ざくっと言ってしまうと、『いつでも平常心』というふうに外からは見えました。
当時の自分は、彼をいつも見ているコーチでもないし、言ってみれば大学生の引率のお兄ちゃん。だから、試合前に声をかけていいのか、そっとしておいたほうがいいのか、迷うことが何度かあったんです。めちゃめちゃ闘争心を燃やしているような感じでもないし、かといって緊張しているようにも見えない。自分からすると、つかみどころのない子でした」
つかみどころがないからこそ、忘れがたい。そんな錦織の不思議な存在感が、玉川氏のなかで一層強まった大会があったという。
「鮮明に覚えているのが、圭が小学6年生の時に出た全日本ジュニア選手権でした。あの時は石光コーチが大会途中で鳥取に帰らないといけなかったので、自分が錦織ファミリーと一緒に最後まで残っていたんです。
実はあの時の全日本ジュニアは、公式ストリンガーとして働いた最初の大会でもあったんです。ヨネックスのストリングルームで働きながら、圭や遊ポートテニスクラブの選手の引率もしていました」
今なら、そのような『兼業』は認められないかもしれない。ただ当時は、牧歌的な時代。「まあ、もう時効でしょう」と笑いながら、玉川氏は25年前の日々を振り返った。
玉川氏にしてみても、石光コーチがいないなかで錦織を引率するのは初の経験。
【試合モードがまったく読めない】
以下、玉川氏の回想である。
「石光コーチがいないので、自分としても、今までにない感覚で決勝を迎えるわけですよ。しかも相手は、この時の開催地の宮崎県出身の子。地元ということもあって気合いが入り、ものすごく大きな声を出しながら、勢いに乗って勝ち上がっていました。自分としては正直、『決勝、勝てるかな......』と不安でもあったんです」
ところが実際には、錦織が6-0、6-1で完勝。
「決勝は、あっさり勝った印象でした。その時の圭は、相手がエースを決めようが、自分を鼓舞して大きな声を出そうが、全然揺るがない。もう淡々とラリーをつなげて、相手のミスを誘い、簡単なスコアで終わったと思います。
『うわー、こいつ、オトナなテニスするなぁ』と感心しました。
ストリンガーとしての自身のスタート地点と、少年時代の錦織圭の集大成が交わる地──。だからこそこの大会は、玉川氏にとっても忘れがたい思い出なのだろう。
話をきいて感傷に浸っていると、玉川氏はいたずらっぽい笑みを浮かべて、こう続けた。
「なんで、こんなことをよく覚えているのかといったら、今も圭の雰囲気が当時と変わらないからなんですよ。プロの大会会場で選手を見たら、たいていは『今は気を引き締めているから、試合前だな』とか、『リラックスしているから、声をかけて大丈夫だな』ってわかるんです。プロの選手には切り替えスイッチみたいなのがあって、試合モードになったら近寄れない雰囲気になる」
ストリンガーとして長くこの世界にいるからこそ、肌身で感得できるトップアスリートたちの『モード』。
その言葉に、ほのかな矜持もにじませる玉川氏が、「それが......」と首をひねって続けるのだ。
「圭は、いまだにわからないんですよ。リラックスしているように見えたのに試合直前だったり、その逆もあったりして。モードが読めない。
懐かしそうな笑みと空気が、玉川氏を包んだ。
「最初に会ったのがいつだったか、思い出せない」と玉川氏は言った。
それは、ともに時間を過ごすなかで醸成した柔らかな空気が、今も変わらずふたりの間に流れているからだろう。
(つづく)
◆玉川裕康の視点(2)>>大学生インストラクターが「ガット張り職人」になるまで
【profile】
玉川裕康(たまがわ・ひろやす)
1976年8月17日生まれ、鳥取県出身。鳥取大学在学中に地元テニスクラブでコーチを始め、29歳でテニスショップを開業。トーナメントストリンガーとして5度のオリンピック(北京、ロンドン、リオ、東京、パリ)をはじめ、全豪オープン、BNPパリバ・オープン(インディアンウェルズ)、上海マスターズ、ジャパンオープンなど国内外で活動。2024年に移転し、ラケットショップ「Frassino racquet works」として現在に至る。



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