連載第89回 
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 J1百年構想リーグEASTで首位に立った東京ヴェルディ

前身の「読売サッカークラブ」の発足は、今から57年前の1969年でした。実業団チーム全盛だった時代から総合スポーツクラブを目指していたクラブの歴史を遡ります。

【ヴェルディの前身は読売サッカークラブ】

 開幕した「J1百年構想リーグ」で東京ヴェルディが好発進した。

 開幕節で昇格組の水戸ホーリーホックに快勝したあと、第2節では昨季J1準優勝の柏レイソルを破り、第3節は同じ東京のライバル、FC町田ゼルビアにPK勝ち。3試合を終えて勝点8でEASTの首位に立っている。

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 町田戦はけっしていい内容のゲームではなかったが、0対2とリードされたあと、89分にカウンターから1点を返し、さらに95分にも右からのクロスを吉田泰授が頭で決めて追いつき、PK戦で勝利して勝点2を加えることに成功した。敗色濃厚のなかでも最後まで戦う姿勢を保ち、集中を切らさなかったことが勝点2につながった。

 2024年に16年ぶりにJ1に昇格した現在の東京ヴェルディだが、クラブの財政規模は小さく、毎年、若い選手を獲得して成長させながら戦い、そして、成長した選手がまた引き抜かれてしまうという苦しい状況にあることに変わりはない。

 今季も、昨季まで守備の要として活躍していたDF谷口栄斗が川崎フロンターレに移籍。そのため、最終ラインからのつなぎに不安を抱えながらの戦いとなっている。

 若い選手を成長させ、戦う気持ちを浸透させながら結果を残し続けている城福浩監督の手腕は高く評価されるべきだろう。

 東京ヴェルディに栄光の過去があることはご承知の通りだ。

 1993年にJリーグが発足した当時、ヴェルディ川崎は三浦知良(カズ)やラモス瑠偉をはじめとしたスター軍団で、自他ともに認める日本最強チームであり、Jリーグ開幕から1993年、94年と連覇を達成している。

 本拠地は川崎の等々力陸上競技場(現・UVanceとどろきスタジアム by Fujitsu)だったが、多くのゲームを旧国立競技場で戦って、常に満員の観衆を集める華やかな存在であり、日本においてJリーグという新しいスポーツの認知度を高める原動力となった。

 ヴェルディの前身は読売サッカークラブだ。

 読売クラブは、1978年に当時のトップリーグだった日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格。初優勝は1983年のことだった。その後、最後のJSLとなった1991-92シーズンまでの間に通算5度リーグを制覇。1987年にはアジアクラブ選手権(ACLの前身)でも優勝している(決勝戦はサウジアラビアのアル・ヒラルが棄権)。

 ブラジル的サッカーを志向し、個人技を生かして中央突破を狙うサッカーは、当時の日本ではまさに異色。見て面白いサッカーをしながら、読売クラブは結果も出し続けた。

 天皇杯全日本選手権でも1984年度(決勝は1985年1月1日)に初優勝を飾ると、1980年代に3度の優勝。Jリーグ発足直前の1991年度と1992年度にも2年連続で決勝に進出。ともに日産自動車(現・横浜F・マリノス)に延長戦で敗れている。

 1993年5月15日のJリーグ開幕戦のカードがヴェルディ対マリノスに決まったのは、当然のことだった。

 と、このあたりまでは熱心なサッカーファンであれば多くの方がご承知だろう。

 今回は、さらに歴史を遡ってこのクラブのルーツを辿ってみたい。

【実業団チーム全盛のなかで】

 読売サッカークラブが発足したのは1969年のことだ。

 1964年の東京五輪で日本代表が準々決勝に進出。さらに4年後のメキシコ五輪で銅メダルを獲得しサッカーは一躍人気スポーツとなり、JSLの試合で国立競技場に4万人の観客が集まることもあった(ただし、主催者側発表)。

 そこで、1960年代の後半にはサッカーのプロ化の可能性が取り沙汰されるようになり、一部の野球場ではサッカー開催に対応できるような改修も行なわれた。

 日本初のプロ野球チームは1934年発足の「大日本東京野球倶楽部」。現在の読売巨人軍である。この年、読売新聞社が米国のメジャーリーグ選抜を招待。対戦した全日本軍を母体にプロ野球チームとなったのだ。

 この動きを主導した読売新聞社社主の正力松太郎は「プロ野球の父」と呼ばれていたが、メキシコ五輪直後の1968年11月に日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)の野津謙会長が正力社主と面会し、「プロサッカークラブ創設」を働きかけたのだ。

 そして、正力はこの要請に応えて東京都稲城市にある「よみうりランド」内に4面の芝生のグラウンドを建設し、読売サッカークラブを創設した。

 当時の日本体育協会(現・日本スポーツ協会)には厳格なアマチュア規則があったため、プロ化は実現せず、1970年代には日本代表の弱体化でサッカー人気も低迷することになってしまったが、とにかくこの時、欧州の総合スポーツクラブに範を取ったサッカークラブが誕生したのだった。

 当時は実業団チーム全盛の時代だった。東洋工業(現・サンフレッチェ広島)や三菱重工(現・浦和レッズ)、古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)といった、ひとつの企業(系列企業も含む)の社員だけで構成されたチームがJSLや天皇杯で覇権を争っていた。

 だが、読売サッカークラブはさまざまな職業の人が集まったチームだった。能力があれば、高校生でもJSLでプレーすることができた。そして、少額ではあったものの報酬も得られ、毎年契約を更新するというプロ的なクラブだった。

【クラブ発足の頃】

 実は、僕は発足直後の読売クラブに個人的な関わりを持っている。

 1964年の東京五輪の時、初めて国立競技場でサッカーの試合を観戦した僕は、中学校時代はサッカー部に入っていた。しかし、進学した高校にサッカー部がなかったので、中学時代の同級生と時々ボールを蹴るだけになっていた。

「もう少し、サッカーをしたいなぁ」と思っていた僕は、読売新聞で会員募集の記事を見つけた。会費1万円(青少年の場合)を払えば誰でも会員になれて、当時はとても珍しかった芝生のグラウンドでサッカーの指導を受けられる......。魅力的だった。

 そこで、クラブハウスを訪ねた。そして、ドアを開けるとふたりの男性がこちらを振り向いた。

 ひとりは日本テレビ運動部出身で読売クラブの運営責任者だった笹浪永光氏。もうひとりは、読売新聞運動部所属で日本を代表するサッカー記者のひとり、牛木素吉郎氏だった。

 おふたりには、その後、非常にお世話になることになるのだが、お目にかかるのはこの時が初めてで、両氏がとても鋭い目つきをしていたので高校生だった僕はすっかりビビってしまった。

 とにかく、僕はそこで会費を支払って、それから毎週末、よみうりランドに通ってサッカーをすることになったのである。

 セレクションもなく誰でも会員になれたから、一流選手を目指す本気度の高い少年から楽しみのためにサッカーをするレベルまで、"玉石混交"の集団だった(僕は、もちろん「石」のほうである)。それでも、夏休みや春休みには合宿があったし、日本代表チームの平木隆三コーチが教えに来てくれたりして楽しくサッカーしていた。だが、そのうち本格派のメンバーが増えてきたこともあって、僕は2年ほどで退会してしまった。

 チームの立ち上げに協力したのは東京教育大学(現・筑波大学)の成田十次郎監督だった。

 ドイツのケルン体育大学留学中にデットマール・クラマーコーチ招聘の橋渡しをしたことでも有名なスポーツ史の専門家で、ドイツの総合スポーツクラブについての知識も豊富だった。

 読売クラブで僕たちをコーチしてくれたのは、東京教育大学サッカー部のOBたち。のちに県立浦和高校監督などを務めた柴田宗宏さんや、国際審判員で1986年のメキシコW杯で日本人として初めて主審を務めた高田静夫さんがいた。そして、彼らがチームを作り、最初は東京都社会人リーグで戦っていた。

これが、今のヴェルディのルーツなのだ。

【総合スポーツクラブの先駆者】

 成田先生や牛木さんが立ち上げに関わったのは大きな意味があった。

 当時、欧州のスポーツクラブに関する知識を持つ人などほとんどおらず、日本人が知っているプロスポーツと言えばプロ野球だった。

 プロ野球は興行として試合を行なうための組織で、高校や大学を出た選手と契約する形式だった(今でもそうだ)。それに対して、欧州のサッカークラブには下部組織があって自ら選手を育成する。また、欧州のクラブはサッカーだけではなく、バスケットボールや陸上、自転車など多くの部門を持つ、いわゆる総合スポーツクラブだった。

 欧州のクラブについて詳しい成田先生や牛木さんがクラブの立ち上げに関わったからこそ、読売サッカークラブは育成部門を充実させ、その後、男女の日本代表選手を数多く輩出することになったのだろう。

 また、現在のヴェルディはバレーボールから、トライアスロン、フットサル、ビーチサッカーなど多くのチームを抱える総合スポーツクラブ「東京ヴェルディクラブ」を傘下に置いている。

 1969年に撒かれた種が、半世紀以上の歳月を経て現実化しているのである。
(参考文献『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年』/2010年)

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