錦織圭という奇跡【第17回】
玉川裕康の視点(3)

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◆玉川裕康の視点(1)>>ジュニア全国大会3冠「あっさり」達成して驚いた
◆玉川裕康の視点(2)>>大学生インストラクターが「ガット張り職人」になるまで

「そうですね。もう、いろんな選手を担当していますけど、彼ほど難しい選手はいないですから、ストリンガーとして」

 玉川裕康。

グランドスラムやオリンピックなど多くの大会で数々のテニスプレーヤーたちのラケットに命を吹き込む、練達のストリンガーである。同時に、少年時代の錦織圭を「アルバイトコーチ」として引率したこともある、25年来の盟友だ。

 その玉川氏が、錦織を「最も難しい選手」だと断言する。もちろん、そう言う時の彼の顔は、ワクワクするように輝くのだが──。

錦織圭は試合中に「9本!」もガット変更を要求 注文も細かいけ...の画像はこちら >>
 テニスラケットの『面』は、ストリング(ガット)を網のように縦横に張ることで形成される。そのストリングを張る際に、どれくらいの強度で引っ張るかで打感が変わる。一般的には、高いテンションで張ると安定感は増すが、反発力は減る。逆に低いテンションだとボールは飛びやすいが、コントロールが難しい。

 ストリンガーは通常、選手たちが指定してきたとおりに張りあげる。ただ、ストリンガーの技量やクセによって、同じ数値で張っても仕上がりは多少異なる。また、仕上がりは同じでも、その日の気温や湿度によっても反発力等は変わる。

 だから感覚が繊細な選手ほど、日々異なるテンションを指定してくる。

それどころか試合中でも、刻一刻と変わる状況に応じてラケットを張りに出す。

 テニスの試合で時折、ボールパーソンが選手からラケットを受け取り、それをコートサイドのスタッフに手渡すことがある。それは選手が、ラケットの張り替えを依頼した時。スタッフはラケットを抱え、大会会場に必ずあるストリングルームへと走るのだ。

 錦織は、そのような試合中の依頼が極めて多いことで有名である。

「本当にオンコート(試合中)の張り出しが多いんですよ、圭は。だから、彼が試合をしているときは、気が休まらないです。しかも来るたびに、指定のテンションが上がったり下がったりするんですが、その傾向がわからないんですよね。上げてくるだろうなって思っていたら、また下げてくるとか。『おい、おい!』みたいなこと、よくあるんですよ」

【祈りを込めるようにガットを通した】

 それら「よくある」経験のなかでも、忘れがたい試合がいくつかある。その筆頭が、2016年リオデジャネイロ五輪。準々決勝のガエル・モンフィス(フランス)との一戦だ。

 2時間53分に及ぶ死闘の末に、7-6(7-4)、4-6、7-6(8-6)で錦織が勝利。

最終セットのタイブレークで、モンフィスに3連続マッチポイントを握られた崖っぷちからの、奇跡的な逆転劇だった。

 この歴史的熱戦が繰り広げられるその裏で、玉川氏もまた、ストリングルームで戦っていた。

「あの日は夕方に試合が始まり、しばらくして日没になった。湿度も高かったので、まあ圭にしてみれば、感覚が合わなかったんでしょうね。もうしょっぱな、アップを終えた時点でいきなりポンと、ラケット張り出しのリクエストが入りまして。まあ、そこから止まらないです。

 試合を通して、オンコートリクエストが9本超え! 最終セットのタイブレークに入った時も、張ってましたもん。『これ、間に合わないよね? 何のために張ってるの?』と思いながらも、リクエストが来ている以上は、張らなきゃ仕方ないですよ。試合が終わる直前に、やっと9本目が張り終わった......みたいな」

 最終セットのタイブレーク中に張っているラケットが試合で使われることは、まずあり得ない。それでも玉川氏が、祈りを込めるようにラケットにストリングを通すのは、それがある種のジンクスでもあるからだろう。

「何のために、とは思いつつも、でもそうなった時の圭は勝つんですよね」

 語る顔が、うれしそうにクシャっと崩れる。

「圭から何本もリクエストが来る時は、だいたい勝つんですよ。

2025年の全豪オープン1回戦、チアゴ・モンテイロ(ブラジル)との試合もそうでした。

 あの時も長い試合でした。どんどんオンコートの依頼が来ていたので、なかなか合わないんだろうなと思いながら張っていたら、2セットダウン。3セット目でも相手のマッチポイントが3~4本あって、そこからの逆転勝ちでした。ファイナルセットは、けっこうあっさり取りましたよね。そういうのは、何度も経験してるんですよ。

 2019年全豪オープンでのパブロ・カレーニョ=ブスタ(スペイン)との試合(4回戦)もそうでしたね。あれも最後、試合終了のギリギリまでオンコートのリクエストが来て張ってました。『ここまで来たら、たぶん勝つな。勝ってくれ!』って思いながら張っていましたね」

【一度「最高でした!」と言わせたい】

 なお、これらの激戦を終えたあとの錦織が、玉川さんにかける言葉は......「全然、合わなかったですね」。

 首をひねりつつ、そうポツリと言うことがルーティン化しているという。

「もう、だから、一度でいいから『最高でした!』って言わせてみたいですね。パチッと合った時は『ああ、よかったです。

それでいくと思います』みたいに言うことはあるんですが、『最高でした』はないですね。

 でもまあ、それが圭のスタイルですからね。たとえば、2024年のジャパンオープン2回戦では(ジョーダン・)トンプソンに完勝だったじゃないですか。なのに、会場に来て何回か張り替えて、『うん、まったく合わないです』って(笑)。平気で言いますからね。

 こちらとしては、何度も張るなかで『これ、最終的に合うんかな?』と思うんですが、完璧な試合をするでしょう? 本当に最後は自分の感性で噛み合わせるというか。そのあたりはほかの選手にはまったくない、不思議な感じですね」

 何が正解なのか? 彼は何を求め、どのような世界を見ているのか──?

 錦織とのやり取りとは、パズルを解くようなプロセスであり、ストリンガーとしての探求心が刺激されるのだろう。

 だから「圭のラケットを張るのは、面白いんです」と、玉川氏がしみじみと言う。

「だって、たいがいの選手は、特に面白みはないですもん。決まった数値どおりに張って渡すだけの話ですし、選手自身ではなくコーチが来ることも多い。そうなると作業やルーティンという感じになるし、選手からもそこまで求められている感じがないんです。

 でも圭の場合は、そこにかけてんのかっていうくらい、ものすごく真剣なわけですよ。

そこにそれだけ注力してプレーに集中できるのかって、心配になるくらいです。注文も細かいんですが、でもそこが噛み合った時は、もうすごいところまで行くわけですよ。その微妙なバランスを、プレーと同時に探っている圭の感覚は、測り知れないです。

 こちらとしては、傾向と対策もない。こんなに長く付き合っていても、ないです。『ああ、これ、勝つんだろうな』っていうのと、『あ、これは負けるかな』というのは、わかりますけれどね」

【聞きたい試合がいっぱいある】

 長い付き合いでありながらも、まだまだ未知の存在──。だからこそ玉川氏には、いずれ錦織に直接尋ねてみたいことが山ほどあるという。

「ぜひ、聞いてみたいですね。『あの時、どうだったの?』って。聞きたい試合がいっぱいありますもん。リオ五輪の時とかも、あれだけ張らされて、張らされて、『なんで今、このタイミングで(テンションを)下げるの!?』って思ったりもしたし。

 でも、それでいいんです。

別に感謝の言葉を求めているわけでもないし、いろいろとありながら、こっちが勝手に『一緒に戦ってたよ』みたいな気持ちなっているだけなので。だからまあ......いつか、聞いてみようかな」

「いつか」という言葉に、ふたりの盟友的な関係性がにじむようだった。

 今は、あえて尋ねる必要はない。答え合わせは、もっと先でいい──。それはきっと、ふたりの間に交わされた無言の約束なのだろう。

(つづく)

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【profile】
玉川裕康(たまがわ・ひろやす)
1976年8月17日生まれ、鳥取県出身。鳥取大学在学中に地元テニスクラブでコーチを始め、29歳でテニスショップを開業。トーナメントストリンガーとして5度のオリンピック(北京、ロンドン、リオ、東京、パリ)をはじめ、全豪オープン、BNPパリバ・オープン(インディアンウェルズ)、上海マスターズ、ジャパンオープンなど国内外で活動。2024年に移転し、ラケットショップ「Frassino racquet works」として現在に至る。

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