関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(9)

(連載8:「プロレスの神様」カール・ゴッチのすごさ アメリカでの直接指導が「関節技の鬼」のベースを作った>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第9回は、佐山サトルや前田日明など後輩とのスパーリングや、新日本プロレスにやってきた"道場破り"との闘いについて語った。

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【藤原が後輩レスラー相手に行なっていた"研究"】

 30歳で渡米し、フロリダ州タンパのカール・ゴッチの自宅で関節技を徹底的に教えられた藤原は、その卓越した技術を後輩レスラーに惜し気もなく伝授していた。ただ、藤原に言わせれば、それは指導ではなく"研究"だったという。

「俺は、若いヤツらに関節技を教えようと思ってスパーリングをやってたわけじゃない。『どうやったら極まるんだろう? もっといい角度はないか?』とか、自分で技を研究するためにやってたんだよ。ゴッチさんのところに行ってからは、習った技を全部ノートに書いてたからな。それを読み返して試していたんだ。

 ゴッチさんから教わるのは技の基本で、あとは自分で考えるしかない。ゴッチさんも口癖のように『強くなるには、頭が75パーセント、力は25パーセント。常に考えろ』と繰り返し言ってたよ。だから俺は、練習中に『こう動いたら相手はどう出るのか』を探るために、わざとスキを作って向こうに極めるチャンスをやることもあったな。そうすると、狙ってきた時にどうすればいいかがわかってくるんだよ」

 新日本プロレスからUWF、そして藤原組と団体は移ったが、藤原は後輩とのスパーリングで"研究"を続けた。藤原は相手にスパーリングを強制しない。

望んだ者だけを相手にしていた。

 そのなかの最も古い記憶で、一番に藤原の胸を借りた選手を尋ねると、「最初は、佐山だろうな」と佐山サトルの名前を挙げた。

【佐山サトルの「素晴らしい試合」】

 1981年4月23日、蔵前国技館でのダイナマイト・キッド戦でタイガーマスクになり、日本中のファンを虜にした佐山が新日本に入門したのは、1975年7月。プロレスに"強さ"を追求した佐山は、道場で藤原の本物の技術を体感し、毎日スパーリングを願い出た。

「とにかくスタートは、こっちが上に乗っかってグシャグシャにやるんだ。向こうは極められないように必死になる。そうなると、『こういう時は、どうするんですか?』って聞いてくるんだ。

 俺も相手があまりにも弱いとつまらないから、聞かれたら『俺だったらこうするよ』ってちょこっと教えるんだ。最初から教えても、幼稚園児に大学の講義をするようなもんだからわかんないだろ。それで教えてやると、俺が予想する通りに相手が動いたりするんだよ。その時に、どういうふうに"料理"したらいいかを考えてたんだ」

 佐山は、道場の練習に加えてキックの技術を学ぶために、空手家の黒崎健時が主宰するキックボクシングの目白ジムに入門する。その熱意を認めたアントニオ猪木は、佐山に「お前を格闘技部門の第一号にする」と指名。1977年11月14日に日本武道館で行なわれた「格闘技大戦争」で、アメリカ人キックボクサーのマーク・コステロと対戦させた。

 試合は2分6ラウンドのキックボクシングルールだったが、19歳の佐山は判定で敗れた。この試合を武道館で見守った藤原は、その試合を称賛した。

「あれは素晴らしい試合だったよ。だってよ、あの時の佐山は、黒崎さんのところに入ってからたった半年ぐらいだったんだ。なのに、あそこまで闘ったから立派も立派だよ」

 試合後には、敗れた佐山に対して批判を口にした者もいた。

「負けた佐山になんだかんだ言ったヤツがいたらしいけどな。何も知らねぇやつは何でも言えるんだよ。とにかく、佐山は素晴らしかった。逆に、恥をかいたのはコステロだよ。自分のルールでやったわけだから、本来なら1ラウンドでやっつけないと名が廃る。絶対に佐山をほめるべきだ。試合終わった後にも、アイツには『よかったぞ』って言ったよ」

【指導したレスラーが軒並み名レスラーに】

 佐山の次に、記憶に残っている選手として前田日明の名を挙げた。前田は1977年7月に新日本に入門した。

その前田との練習では、声をかけた時の喜んだ姿を思い出すという。

「相手をやっつけるってことは、相手に『参った』って言わせることなんだ。だから、俺とスパーリングをやって毎日『参った』って言ってたら、落ち込んでスパーリングをやらなくなっちまうかもしれないだろ? そうなると俺も"研究"ができなくなるから困るんだよ。

 だから、ずっと後輩とスパーをやるには"生きがい"を与えないといけない。ある時、前田が練習後に落ち込んでいたから、『明日から来なくなるかもしれない』と思って、『強くなったな。半年後には俺がやられるかもしれない』って声をかけてやったんだ。そうしたらアイツは、『本当ですか!』ってうれしそうに目を輝かせてな(笑)。あの顔は忘れられないな」

 藤原は続けて、後輩を指導する時の極意を明かした。

「人にものを教えるっていうのは簡単でな。褒めればいいんだよ。褒められるとうれしいだろ? そうすると一生懸命やるようになって、強くなる。それで、俺もいい"研究"ができるようになる。

そこまでくれば、コーチの役目は90パーセント終わりさ。この指導法のよくない点は、後輩がテングになる、ということかな」

 さらに藤原と熱心にスパーリングを行なった選手を聞くと、「船木(誠勝)、鈴木(みのる)、高橋(義生)......そんなところだよ」と明かした。その選手たちはのちにレスラーとして大成したが、その才能を当初から感じていたのだろうか。

「そんなもん、最初から才能なんかわかるわけねぇよ。半年くらいするとわかってくるけどな。言えることは、俺にくっついてきたやつらは才能があったってことだよ」

【絶対に負けられなかった"道場破り"との闘い】

 藤原とのスパーで、強さと才能を磨いたレスラーたちが新日本の道場伝説を築き上げた。この伝説のなかには、予期せぬ"道場破り"もあった。

 昭和50年代、「プロレスこそ最強」を掲げた新日本に対し、柔道、空手、キックボクシングなど、さまざまな格闘技の猛者が突然、道場にやってくることがあった。そういった時、相手を務めたのは藤原だった。

「なんで俺が相手をしたかって? みんな逃げるからだよ。腹が痛い。風邪をひいたってな(苦笑)」

 藤原を指名したのは、山本小鉄だった。

「小鉄さんが『藤原、やってみぃ』って言ってな。俺もプレッシャーはあったよ。道場にくるやつは、自信あるからくるわけだろ? みんな強いに決まってんじゃん。だけど、もし負けたらクビだからな......」

 藤原と闘う前に、相手には「何があっても新日本プロレスは責任を取りません」という趣旨の誓約書を書かせたという。藤原自身も、道場破りの闘いにおいて決めていたことがあった。

「勝負ってのは、五分五分でやっと勝つんじゃダメなんだ。無事で帰すわけにはいかない。例えば、相手が肘を痛めれば、その痛みは一生覚えているだろ? そこまでやらなきゃダメなんだよ。道場破りとの闘いは、すべて勝ったと思ってる」

 負ければ、新日本の「最強伝説」は根底から崩れることになる。藤原は、猪木が掲げた「プロレスこそ最強」を守っていたのだ。

「道場破りとの闘いは何回やったか数えたこともないけど、極めるまでに時間がかかるときもあったよ。チャンスがきた時に、一気にやるだけだった。

関節技ってのは骨を折るわけじゃないけど、脱臼させるか筋が伸びるか......そういうやつが多かったな」

 道場破りに勝つと、小鉄からボーナスが贈られたという。

「小鉄さんから金一封があってな。20万円くらいもらったよ。こっちは命がけでやったからな。その額が妥当かどうかって? そんなこと聞くなよ(笑)」

(敬称略)

つづく

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

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