風張蓮インタビュー(後編)
岩手県人として誇らしい。
それは、風張蓮が大谷翔平の実力を肌で感じており、なおかつトップレベルの野球を知っているからこそ、素直にそう思える。
【大学進学という決断】
自分と同じ岩手で育った大谷は、今や「世界ナンバーワン」と喝采を浴びるほどのスーパースターである。
2018年に日本から海を渡った俊秀は、世界中に驚愕と嘆息をもたらす。エンゼルスで「和製ベーブ・ルース」として、マウンドと打席で相手に脅威を与えた。23年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では二刀流として日本代表を牽引し、優勝の瞬間にマウンドの中心で雄叫びを上げた歓喜は、今も強烈な色彩を放つ。そしてこの年のオフには、当時のメジャーリーグ最高額となる7億ドルでドジャースと契約を結んだ。
すでに漫画ですら描けないほどの世界観──多くの野球ファンと同じように、目を丸くするだけのリアクションしか取れない。ただ、大谷が異次元のパフォーマンスを見せるほど、風張のあの記憶も踊りだす。
「今はもう一ファンですよね。岩手で生まれ育ったくらいとか、関係性っていうのはほぼないんですけど、こっちが勝手につながりを意識しているというか。うれしいですよ、やっぱり」
岩手県出身のふたりの接点。それは、高校時代に白球を交えたことだ。自分より2学年下とはいえ、大谷は当時からすごかった。
2010年の春。
「プロ注目」と謳われていたとはいえ、花巻東を抑えられなかったことは、風張のなかで少なからず未熟さを痛感させられる出来事のひとつとなっていた。さらには、プロ野球各球団のスカウトと直接、会話ができる監督の屋形場哲也からこのような現実を伝えられたことも、風張を冷静にさせていく。
「高校からプロには行けるだろうけど、ドラフトは下位指名か育成枠になると思う」
そんな折、風張に熱視線を送り続けてくれていたのが、東農大生産学部(現・東農大北海道オホーツク)の樋越勉監督だった。交通の便に優れているとは言えない九戸(くのへ)村まで何度も足を運び、自分を見てくれていた。その樋越から「絶対に上位でプロに送り出す」と口説かれ、風張は大学進学を決意する。
「高校からだと『下位指名だ』っていうのも、なんか嫌だなって思ったんですね。そこで、樋越監督から言葉をかけていただいて、意気に感じたところもあって。高校では全国大会に行けませんでしたし、高いレベルの野球を知らなかったので、『大学に行ってプロになれないようなら、自分の実力はその程度なんだ』と、覚悟を決めました」
【ドラフト2位でヤクルトに入団】
風張は大学入学直後の1年生の春からメンバー入りを果たし、全日本大学選手権でマウンドに立っている。最速147キロのストレートは大きな武器ではあったが、早々と台頭できた背景にはピッチングの変化もあった。
高校まではどちらかというと、三振を奪うことに重きを置いていた。それが大学になると、テンポを意識したピッチングで打たせることも具現化できるようになっていった。
変革を果たせた遠因をたどると、高校時代に対戦した花巻東の影響もあったという。
相手はセーフティバントや際どいコースをファウルする〝カット打法〟など、ピッチャーを揺さぶる術を知り尽くしていた。疲弊したところで、大谷のような長打のあるバッターにたたみかけられた──そんな経験が、風張をたくましくさせたのである。
「それまでは、どちらかというと『1球、1球全力で投げる』みたいなピッチングだったんですが、スピードよりコースを意識するところは意識したり、野手の守りやすさを優先してテンポを変えてみたり。ピッチングに強弱をつけられるようになったのは、あの花巻東戦がけっこうデカかったです。そういうところが大学生になって生かされたんで、あれが転機ではあったのかなって思いますね」
目に見える、風張の成長曲線。その一方で、高校時代からすでに認め、その後の動向もインターネットのニュースなどで追っていた2学年下の「すごい選手」は、すでに別次元の住人になろうとしていた。
2012年夏、岩手大会準決勝。当時の高校生最速となる160キロを叩き出した大谷の異常さを、同じ地で高校時代を過ごした風張は痛切に感じ取っていた。
なんだ、これは? 大谷が計測した160キロの第一印象は、疑問と驚きが混在していた。
「試合はダイジェストで観たんですけど、ふつうに計測ミスだと思いましたよ。大谷選手が160キロを出した岩手県営球場ってあんまり球速が出ないところで、自分もあそこで投げた試合はあんまりスピードが出ませんでした。なんなら、ほかの高校生ピッチャーが150キロを出したのすら見たことがなかったくらいですからね。
自分がステップアップを果たしていても、「すごい選手」はさらにその先を進んでいた。
風張は3年と4年に大学日本代表候補に選ばれ、ストレートの最速は151キロまで伸びていた。大学球界でも「プロ注目」と騒がれるようになり、14年のドラフト会議ではヤクルトから2位指名。高校時代に交わした樋越の約束を風張も自らのパフォーマンスで応え、プロへの扉をこじ開けたのである。
【プロで果たせなかったリベンジ】
アメリカ球界挑戦の表明から一転、投打の"二刀流"として日本ハムに入団した大谷は、プロ2年目のこの年、ピッチャーとして11勝、バッターとしては10本のホームランをマーク。プロ野球史上初となる「2ケタ勝利と2ケタホームラン」の快挙を成し遂げ、異次元の領域をさらに拡大させていた。
セ・リーグのヤクルトとパ・リーグの日本ハム。プロで対戦できる機会は、ペナントレース開幕前のオープン戦かシーズン中のセパ交流戦、頂上決戦となる日本シリーズと限られている。結論から言えば、風張はプロの舞台で大谷と相まみえることはなかった。
歪ませる口元が、悔しさを表していた。
「オープン戦で日本ハムと試合をするタイミングに限って、僕が二軍に落ちちゃったり、やっと一軍でずっと投げられるようになったと思ったら、大谷選手がすでにメジャーに行ってしまったり。タイミングが噛み合わなかったです。当時は岩手県出身のプロ野球選手ってあんまりいなかったんで、『岩手対決』となれば僕も燃えたし、高校時代に打たれてもいたんでリベンジしたかったですけどね」
大谷がエンゼルスへ移籍した18年、風張は53試合に登板するなどヤクルトのブルペンを支えたが、これが彼にとってプロでのキャリアハイとなった。
通算登板数は93試合。2勝4敗、7ホールドポイント、防御率5.91。これが、風張が残したプロ野球での足跡である。
数字で判断すれば結果は乏しい。それでも、風張は目指していたプロ野球選手となった。この観点で言えば、大谷も花巻東時代に目標を細分化した、マンダラチャートを作成し、一つひとつをクリアして現在がある、という逸話は周知のとおりだ。
【プロになることが夢だった】
ふたりの大きな違い。それはおそらく、風張は「プロ野球選手になること」が目標で、大谷は「プロで活躍すること」を目指していたのではないか? 風張にそう向けると、質問を受け止めるように口を開いていた。
「『小さい頃からの夢』という意味では、プロに入るのがゴールだったわけですよね、僕にとっては。そこを原動力に大学まで頑張ってきたのは間違いないんで。それに対して『だからプロで活躍できなかったんじゃないか』って声も確かにあるんですよ。
22年。風張は「現役続行」という目標を実現するべく、海を渡った。
日本のプロ野球を戦力外になった選手や独立リーグでプレーする選手を対象に、アメリカでメジャーリーグ傘下やメキシコなどのチームと対戦するトラベリングチーム「アジアンブリーズ」。このチームの一員となった風張は、一度だけ大谷を生で見かけたことがあったのだという。エンゼルス傘下のチームとの試合で、偶然にも球場のブルペンにいた同郷の後輩の姿を捉えた時、胸が脈打つ自分がいたのだとうれしそうに話していた。
「遠目に眺めただけですけどね。アメリカでも大谷翔平はみんな知っていますから。そんな選手と対戦したことがあるっていうだけでも、ありがたいことですよね」
この前年に9勝、46ホームランをマークしてアメリカン・リーグのMVPに輝いたスーパースターは、海外の選手にとっても憧れである。日本人の野球選手である風張は「ショウヘイ・オータニ」について聞かれることもあり、その度にうれしい気分になった。
「オレ、ハイスクール時代のオータニと対戦したことがあるんだ」
ワオ! 異国の人間が目を輝かせながら、自分を称えるように手を叩いてくれた。
風張は22年限りでユニフォームを脱いだ。そして、野球人生でたった一度だけ交錯した野球界の英雄は、24年に未知の領域だった50ホームラン、50盗塁の「50−50」に初めて到達。ホームラン、打点王の2冠にも輝きナショナル・リーグのMVPにも選ばれるなど、ドジャースのワールドシリーズ制覇の中心を担った。昨シーズンには二刀流を復活させポストシーズンで躍動。2年連続での世界一を投打で支えた。
他人の人生ではある。しかし、大谷が光を放てば放つほど、自分も幸福感を得られる。今では「ファン」だと誰にでも胸を張れる風張の、ちょっとした自慢でもある。










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