前編:中村匠吾監督と明治学院大の新たな挑戦
東京五輪男子マラソン代表の中村匠吾(33歳)が現役引退とともに、箱根駅伝を目指す明治学院大学の指揮官に就任。すでに現場での指導を始めている。
これまでの指導経験はないが、中村は箱根駅伝初出場を目指すチームの指揮にあたる以前に、指導者になるべく準備を進めてきた。
また、明治学院大側はなぜ中村に白羽の矢を立てたのか。
【監督就任に至るまでの大学側の背景】
今年1月、男子マラソンの中村匠吾が現役引退を表明した。中村といえば、駒澤大時代には箱根路を沸かし、実業団の富士通に進んでからはマラソンで活躍。2019年に開催された第1回MGC(マラソン・グランド・チャンピオンシップ)を制して、東京五輪の日本代表に上り詰めたランナーだ。その走りは多くの人々の記憶に刻まれている。
「MGCでオリンピック出場を叶えられた瞬間は、長年の夢だったのでとても幸せな瞬間でした。その一方で、ケガに苦しんで、本番はなかなか思うような結果が残せませんでした。さまざまな経験をした競技人生だったんですけれど、2月末で最後のレースを終えた時に、本当に幸せな競技人生だったなと思えたので、私としてはすごく満足しています」
中村自身もまた、万感の思いを抱きつつも競技者生活を振り返り、こうきっぱりと言い切ることができた。
現役ラストレースとなった2月22日の阿波シティマラソンから約10日が経って、3月に入ってすぐのことだった。現役を退いたばかりの中村が、明治学院大学陸上競技部長距離ブロックの監督に就任することが発表された。3月5日にはさっそく就任会見も行なわれた。
明治学院大は1863年に創立された歴史ある大学で、陸上部も創部100年を超える。
そんな現状を打ち破るべく、白羽の矢が立ったのが中村だった。就任会見には今尾真学長も出席。そんなところからも、大学の本気度が窺えた。
中村が明治学院大から監督就任のオファーを受けたのは、まだ現役競技者だった昨年12月末だったという。
「このお話をいただきました時には、正直迷いもありました。私自身、現役生活を長年送ってきて、指導者としての経験が全くないところから一からのスタートになります。はたして私自身がどこまで引き上げていくことができるのか不安はありました」
【恩師ふたりの言葉に背中を押されて】
その時の心境をこう振り返るように、コーチ経験もなく監督職に就くことに、中村自身は葛藤があった。実際、所属する富士通の福嶋正総監督からも「コーチを経験してから監督になっても遅くはないのではないか」というアドバイスがあったという。
「その言葉は福嶋さんの温かさであり、私を大事にしてくれているからでもありましたが、この明治学院大が声をかけてくれたのはひとつの縁だと思いました。
茨の道が待っているのは承知のうえで、退路を絶ってオファーを受けることを決めた。
決断できたのは駒大時代の恩師である大八木弘明総監督の言葉も大きかった。
「大八木総監督の存在はすごく支えになっていて、現役時代はもちろん、これから指導者人生を歩んでいくうえでも数多くの相談をさせていただくことになると思っております。
明治学院大に行こうと決断できたのも大八木総監督の言葉でした。『中村だったらやれる』とおっしゃっていただきました。『一からのスタートは大変だと思うけど、それをまず"やりがい"として感じること』、『選手を第一に考えて、情熱を持って取り組んでいくこと』とおっしゃっていただき、その2点を真摯に受け止めて、これからの指導生活に活かしていければと思っております」
恩師の言葉が中村の背中を押した。
「大八木総監督や福嶋総監督に相談させていただいて、せっかくやるなら一から中村のカラーを作りながら、チームを(箱根駅伝)本戦に導いていくところがいいんじゃないかというお話もいただきまして、私としても心を決めて、ここにやってきたつもりです。精一杯選手に寄り添って、本選出場に向けて頑張っていきたいと思います」
今はまだ駒大色が強いかもしれないが、これからじわじわと中村のカラーを作り上げて、チームに浸透させていくことになる。
【魅力は「指導者として他大学のカラーがない部分」】
一方、大学側は、中村が指導者としてまっさらな状況からの出発であることを、むしろ前向きに考えていた。
陸上部の黒田美亜紀部長は言う。
「これまでうまくいかなかった部分をあらためて、大学としても新たなイメージで箱根駅伝を目指したいと思っていました。中村さんはもちろん選手としては大変著名で、駒澤大学出身ということは誰もがご存知だと思います。
もちろん中村の人柄や競技への真摯な姿勢があってのことだが、指導者として未知数だろうと、中村と共に新体制で再出発すると決めていた。このようにして、縁があって、中村新監督が誕生した。
指導を受ける選手たちも、新体制のスタートを好意的に受け止めている。
「このような形で新しい体制が始まりますが、選手としてはとてもポジティブに捉えています。もちろん前の体制がダメだったということは決してなく、今までのコーチ陣は予選会に出られないようなチームから関わり、引き上げてくださり、最近では学生連合などで箱根路を走る選手がポツポツと出るようになってきました。
これからは中村さんをはじめ、新しい体制でしっかり刺激をもらいながら、チーム全体として箱根を本気で取りに行きたいと思っております」
こう話したのは、今年の箱根駅伝で関東学生連合の5区を走った髙橋歩夢(新4年)だ。これまでの指導陣に感謝の言葉を口にしつつ、チームの新たな船出に気持ちを昂らせている。
「4月から中村監督とともに新しいスタートを切ることを大変うれしく思っています。中村監督とともに箱根駅伝に出場できるように頑張ってまいります」
新3年生ながら新チームの主将を務める小出暖人は、このように決意を口にした。
彼らに印象に残っている中村のレースを聞くと、そろって2019年のMGCを挙げた。
「やはり MGC のレースが一番印象に残っています。
髙橋の記憶には、中村が"速い"より"強い"選手という印象が刷り込まれていた。当時中学生だった小出は、沿道でMGCを生観戦したという。
「現地で見た記憶は今でも鮮明です。その時はまだ集団だったんですけど、そのあとでスマホで配信を見ている時に中村さんがバーンって抜け出しました。前評判が高かった大迫(傑)さんが優勝するのかなと思って見ていたので、『まさか中村さんが!』と思ったのをはっきり覚えています」
また、小出が初めて見た箱根駅伝でも中村は激走を見せていた。それは、4年生として迎えた第91回(2015年)大会の1区。中村は何度も先頭集団から遅れながらも粘り、最後は驚異的なラストスパートを見せて区間賞を獲得した。
「当時は中村さんのことを知っていたわけではないんですけど、首をかしげながらスパートしたのを覚えています」
まだ小学生だった小出にとって、中村のスパートは鮮烈に映った。
それほど印象深い選手だった中村が、現役を引退してすぐに自分たちを指導することになるとは、ほんの少し前までは全く想像もしなかっただろう。
後編につづく:「中村匠吾の背中を押した3人の恩師」



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